田中 一元(たなか かずもと、1878年明治11年)2月2日[1] - 1942年昭和17年)2月12日[2])は、日本教育者

田中一元

経歴

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福岡県遠賀郡折尾町(現在の北九州市八幡西区)出身[1]。池田作右衛門の二男として生まれ、田中寥誉の養子となった[3]1899年(明治32年)、浄土宗高等学院(現在の大正大学)を卒業[3]1906年(明治39年)、東京帝国大学文科大学史学科を卒業し、さらに研究科を修了した[1]芝中学校教頭、奈良県立郡山高等学校教頭、奈良女子高等師範学校教授・庶務主幹、島根県立松江中学校校長などを歴任した[1]1927年(昭和2年)、東京府女子師範学校校長・東京府立第二高等女学校校長となり、1938年(昭和13年)に退官した[3]

脚注

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  1. ^ a b c d 大衆人事録 1935.
  2. ^ 死亡広告」『朝日新聞』第20076号1942年2月15日、4面。
  3. ^ a b c 人事興信録 1939.

参考文献

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  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第11版』帝国秘密探偵社、1935年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第12版(下)』人事興信所、1939年。 


公職
先代
竜山義亮
東京府女子師範学校長
1927年 - 1938年
次代
加藤覚亮
先代
竜山義亮
東京府立第二高等女学校
1927年 - 1938年
次代
加藤覚亮
先代
西村房太郎
島根県立松江中学校
1920年 - 1927年
次代
須貝太郎