生駒親興
日本の江戸時代前期~中期の武士
生駒 親興(いこま ちかおき、明暦元年7月6日(1655年8月7日)[1] - 元禄15年4月26日(1702年5月22日))は、江戸時代前期の旗本。初名は高重、幼名は虎松、通称は主殿。
生涯
編集出羽矢島藩主・生駒高俊の三男として誕生した。生母は今氏。実兄である交代寄合・生駒高清の養子となる。寛文10年(1670年)5月1日、将軍・徳川家綱に御目見する。元禄7年(1694年)12月12日、高清の死去により家督を相続する。
元禄15年(1702年)4月26日、死去、48歳。墓所は荒川・養福寺など。長男の正親が相続した。
正室は大村純長の娘。子女に長男・正親、次男・俊定(叔父で旗本2千石の生駒俊明養子)、三男・親猶(兄の正親の養子として家督相続)、堀田正方妻(後に本多政惇妻)、村瀬勝成妻、酒井忠丘妻らの三男三女がいる。
脚注
編集- ^ 『秋田県史 [通史編] 第7巻 (年表索引編)』(秋田県、1966年)附録 各藩歴代藩主系譜 p.7
参考文献
編集- 「寛政重修諸家譜」