生源寺 希璵(しょうげんじ まれとき、文化4年(1807年[注釈 1] - 明治4年9月4日1871年10月17日[1])は、江戸時代神職公卿日吉大社社司。

文化4年(1807年)に生まれる。父は生源寺希烈、弟に藤井希璞。子に生源寺希徳[2]

安政5年3月24日1858年5月7日)、52歳で従三位に叙され、公卿に列せられた[3]明治元年まで従三位非参議であった[4]。明治4年(1871年)死去。

脚注

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注釈

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  1. ^ 『官幣大社日吉神社大年表』では「薨六十一」とされており、数え年で逆算すると1811年になる。

出典

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  1. ^ 『官幣大社日吉神社大年表』日吉神社、1942年、附載17頁。
  2. ^ 武知正晃 2012, p. 79.
  3. ^ 『公卿補任』第五篇, p. 518. 孝明天皇安政五年条。
  4. ^ 『公卿補任』第五篇, p. 590. 明治天皇明治元年条。

参考文献

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  • 黒板勝美、國史大系編修會『公卿補任』 第五篇、吉川弘文館〈新訂増補国史大系〉、1974年。 
  • 武知正晃「西川吉輔直筆書状の翻刻と紹介(第七回):近江帰国後の西川吉輔その二」『立命館文学』第626巻、2012年、78-95頁。