生善院 (熊本県水上村)

熊本県水上村にある寺院

生善院(しょうぜんいん)は、熊本県球磨郡水上村にある真言宗智山派の寺院である。 寺に残る伝説から、「猫寺」の通称で知られる。山門脇には、狛犬ならぬ「狛猫」が置かれる。

生善院

狛猫のいる生善院山門
所在地 熊本県球磨郡水上村大字岩野3542
位置 北緯32度17分15.1秒 東経130度58分34.6秒 / 北緯32.287528度 東経130.976278度 / 32.287528; 130.976278座標: 北緯32度17分15.1秒 東経130度58分34.6秒 / 北緯32.287528度 東経130.976278度 / 32.287528; 130.976278
山号 千光山
宗旨 真言宗智山派
本尊 千手観音立像
創建年 寛永2年(1625年
開基 相良長毎(頼房)
別称 猫寺
札所等 九州八十八ヶ所百八霊場第98番札所、相良三十三観音霊場第24番札所
法人番号 9330005007775 ウィキデータを編集
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寛永2年(1625年)建立の観音堂は、国の重要文化財に指定されている。観音堂内の須弥壇嵌板にも猫が彫刻されている。

伝説

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創建は寛永2年(1625年)、相良氏第20代相良長毎(頼房)によるもので、次のような由来をもつ。

かつてこの地にあった普門寺の住持・盛誉法印は、天正10年(1582年3月16日、相良氏より無実の罪によって殺され[1]、寺にも火をかけられた。

息子の死を恨んだ法印の母・玖月善女は、相良氏を呪い、断食して市房神社で37日間(21日間とも)の咀呪をなし、指を噛み切って神像に血を塗り、愛猫の黒猫「玉垂」にも因果を含めて自分の生血をすすらせ復讐を誓い、猫とともに淵に身を投げて死んだ。

その後、相良氏が化け猫に悩まされるようになり、盛誉親子らの霊を鎮めるため、普門寺跡に建てられたのが生善院だという。初代住持は願成寺第16代の尭辰。藩では盛誉法印の命日3月16日に藩民に寺への参詣を命じ、藩主自らも参詣したので、祟りは止んだと伝えられる。

文化財

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重要文化財(国指定)

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  • 生善院観音堂(附:厨子) - 江戸時代前期(1625年)の建立。桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、茅葺、向拝一間、こけら葺。平成2年(1990年)09月11日指定。

御詠歌

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野も過ぎて里をも過ぎてなかやまの 寺に参るは後の世の為[2]

所在地

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  • 熊本県球磨郡水上村大字岩野3542

交通

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注釈

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  1. ^ 無実の罪の内容について複数の説がある。一説には、盛誉は湯山城主・湯山佐渡守宗昌の弟であったが、相良氏への謀反を企てたと疑われ、死罪に処せられたという。寺に設置の案内板などはこの謀反説を採る。別の説では、村に庵を結んでいた比丘尼の学徳に私淑した青年僧・盛誉がその教えを乞うたところ、盛誉に不浄の行いありとする噂が立ち、これが相良氏の耳に達して死罪に処せられたとする(『くまもと』97-98頁、『熊本県大観』別天地球磨郡8頁)。
  2. ^ ひとよし・くま旬夏秋冬キャンペーン実行委員会発行「相良三十三観音御宝印帳」

参考文献

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  • 『球磨郡郷土誌』(熊本県教育会球磨郡支会,1916) 98頁
  • 後藤重久編『球磨案内』(後藤重久,1923)6-7頁
  • 『くまもと』(新興熊本大博覧会協賛会,1935)97-98頁
  • 『熊本県大観』(警醒社,1935)別天地球磨郡8頁
  • 春野草結『九州八十八ヶ所百八霊場ガイド』(朱鷺書房,2011)
  • 『熊本・観光文化検定 公式テキストブック』(熊本商工会議所,2006)62頁
  • 熊本県高等学校地歴・公民科研究会日本史部会編『熊本県の歴史散歩』(山川出版社,2010)
  • 生善院観音堂パンフレット

関連項目

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外部リンク

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