王高徳
高句麗の平原王代の大丞相
王 高徳(おう こうとく、生没年不詳)は、高句麗の平原王代の大丞相[1]。高句麗人の人名は基本的に高句麗滅亡まで中国化することはなかった[2]。王高徳は、漢姓・漢名の中国人名であるため、313年の高句麗の攻撃により崩壊した楽浪郡の中国系豪族・楽浪王氏の遺民とみられる[3]。
王 高徳 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 왕고덕 |
漢字: | 王 高徳 |
発音: | ワン・ゴドク |
日本語読み: | おう こうとく |
概要
編集『続高僧伝』及び『海東高僧伝』によると、平原王十八年(576年)に大丞相だった王高徳によって義淵が中国に派遣され、中国仏教界で一番仰がれた法上大碩徳に会い、高句麗の大乗仏教と大乗戒律が成立した[4]。
致有高句麗國大丞相王高德,乃深懷正法,崇重大乘,欲播此釋風被于海曲,然莫測法教始末緣由,西徂東壤年世帝代,故具錄事條,遣僧向鄴,啓所未聞。 — 続高僧伝、巻八
前齊定國寺沙門法上。戒山慧海。肅物範人。歷跨齊世為都統。所部僧尼不減二百萬。而上綱紀將四十年。當文宣時盛弘釋典。內外闡揚。黑白咸名。景行既彰。逸響遐被。是時句高麗大聖相王高德。乃深懷正信。崇重大乘。欲以釋風被之海曲。然莫測其始末緣由.自西徂東年世帝代。故件錄事條。遣淵乘帆向鄴。 — 海東高僧伝、巻一
脚注
編集- ^ “해동고승전 > 卷第一 流通一之一 > 釋義淵 > 법상에게 묻다”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年9月26日時点におけるアーカイブ。
- ^ 伊藤英人『「高句麗地名」中の倭語と韓語』専修大学学会〈専修人文論集 105〉、2019年11月30日、376頁。
- ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學校 東洋學硏究院): p. 103-104. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ 崔福姫『古代韓日仏教文化交流について : 人的交流に見られる二・三の問題点を中心に』佛教大学〈佛教大學大學院紀要 30〉、2002年3月1日、24頁。