玄侑 宗久(げんゆう そうきゅう、1956年4月28日 - )は、日本小説家臨済宗僧侶福島県在住。東日本大震災復興構想会議委員。

経歴

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福島県三春町にある臨済宗妙心寺派福聚寺の長男として生まれる。カトリック系の三春幼稚園、地元の小中学校を経て福島県立安積高等学校卒業。この間モルモン教統一教会天理教などに触れる。小学校3年の頃、いずれ来たるべき「死」を想って毎晩のように泣いた。また中学3年で罹った日本脳炎のため、3日間の昏睡状態を経験。意識不明中の妄想の記憶と、あとで聞かされた行動などから、あらためて「死」について考えた。高校時代は毎年家出。高三のとき出逢った哲学者星清から後の出家への動機付けを得た。

18歳で上京、予備校を経て慶應義塾大学文学部中国文学科で現代演劇を専攻。在学中にイスラム教ものみの塔に触れ、また山梨県向嶽寺などで坐禅を組み始める。この頃、小説も書き始め、同人誌「いんぐ」に参加。台湾、輔仁大学華語研究所に私費留学。学生であることを偽り様々な職種を体験。卒業をまえに「第一広告」「共同通信社」の募集要項を取り寄せるが結局試験は受けず、川口市のゴミ焼却場に勤めながら小説を書くがどうにもならず。この間引越6回。他にナイトクラブのフロアマネージャー、英語教材販売などの職を転々とする。

1983年、27歳の冬、京都の佐保田鶴治ヨガ道場を訪ね、指導を受ける。3月27日、京都嵐山天龍寺専門道場に入門し、平田精耕老師の許で参禅。3年弱で退山。神戸、山梨などを行脚してから帰郷。1988年4月、実家である福島県三春町福聚寺副住職、妙心寺派教化委員に就任。1991年12月結婚。

2000年、新人賞・同人誌などを経ず、投稿した作品「水の舳先」が『新潮』10月号に掲載され芥川賞候補作となる[1]

2001年、「中陰の花」で第125回芥川賞を受賞[2]

2007年柳澤桂子との往復書簡「般若心経 いのちの対話」で文藝春秋読者賞を受賞[2]

2008年2月より福聚寺第35世住職[2]。また妙心寺派現代宗学委員。福島県警通訳福島県立医大病院経営審議会委員。

2009年4月より京都・花園大学文学部仏教学科客員教授。妙心寺派宗門文化章を受章[2]

2010年、『アブラクサスの祭』が、映画化(出演・スネオヘアーともさかりえ小林薫ほか)され公開[3]

2011年4月、東日本大震災復興構想会議委員に選出される。同月から、新潟薬科大学客員教授(応用生命科学部)[2]。6月、映画『無常素描』に出演[4]

2011年9月より、東日本大震災被災青少年支援のための「たまきはる福島基金」理事長[2]

2012年6月より、京都大学こころの未来研究センター連携委員。また震災後立ち上げた三春実生プロジェクト副代表。8月、第46回仏教伝道文化賞、沼田奨励賞を受賞。10月より、鈴木大拙館アンバサダー[2]

2014年、『光の山』により芸術選奨文部科学大臣賞受賞[2]

2015年、『東天紅』が第41回川端康成文学賞最終候補作となる[5]

著作リスト

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小説

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単著

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共著

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対談

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アンソロジー

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寄稿

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監修

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講演CD

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連載

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  • 福島民報「日曜論壇」
  • 月刊住職「日日是薩婆訶(にちにちこれそわか)」
  • 墨「天真を養う」

テレビ出演

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ラジオ出演

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  • 朝ゼミ・エフ 日日是好日(毎週金曜日 8:20~8:26 ラジオ福島

注釈・出典

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外部リンク

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