猪子一時
猪子 一時(いのこ/ゐのこ かずとき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
---|---|
生誕 | 天文11年(1542年) |
死没 | 寛永3年3月28日(1626年4月24日) |
別名 | 通称:次左衛門、三左衛門、内匠助、内匠頭 |
墓所 | 天徳寺栄立院(東京都港区虎ノ門) |
官位 | 従五位下 |
主君 | 織田信清→信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠 |
氏族 | 猪子氏 |
父母 | 父:猪子久左衛門[1] |
兄弟 | 一時、一俊(高就)、加助(賀介)[2] |
子 | 一日、正次、一成 |
略歴
編集『寛政重修諸家譜』によると、猪子氏は、源頼政の嫡男仲綱が末流で、初め摂津国生田に住して生田氏を称し、後に猪子に改めたとする。元は源氏であるが、藤原氏とされている詳細は不明という[3]。
猪子久左衛門[1]の子。弟に兵助(一俊または高就)がいる。初め、父と同じく、尾張国の犬山城主・織田信清に仕えて、永禄元年(1558年)、浮野合戦で岩倉織田氏と交戦した様子が『甫庵信長記』にある。
その後、織田信長に仕えて、永禄3年(1560年)、18歳の時に赤母衣衆に追加で選ばれる。天正6年(1578年)には、有岡城攻めに参加。後に高槻城の番衆の1人となる。
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が死亡した際に、その近習であった弟兵助も、二条御新造で織田信忠らと共に討死した。
以後は豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585年)に摂津太田郡に1,000石を知行。後に近江国愛智郡、河内国河内郡、伊勢国河曲郡において加増され、合わせて2,730余石となり、黄母衣衆に列したという。秀吉の御咄衆となり、文禄の役でも名護屋城に駐屯。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは東軍に属して参加。田中吉政、金森素玄[4]・可重らと功を争って敵陣に斬り込んで首級を上げ、茶入「常陸帯肩衝[5]」を褒美に与えられた。慶長19年および20年の大坂両陣にも従軍。元和3年(1617年)には、徳川秀忠の御伽衆の一人になった。寛永3年(1626年)に武蔵国にて没。享年85。
人物
編集脚注
編集参考文献
編集- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、65-66頁。ISBN 4642027432。
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 猪子氏」『寛政重脩諸家譜. 第5輯』國民圖書、1923年、911-912頁 。