牧野忠寿
越後長岡藩4代藩主
牧野 忠寿(まきの ただかず[1])は、越後長岡藩の第4代藩主。長岡藩系牧野家宗家5代。江戸幕府奏者番。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄8年(1695年) |
死没 | 享保20年10月2日(1735年11月16日) |
改名 | 源次郎(幼名)・靭負(通称)→忠寿 |
戒名 | 得雄院前駿州本誉祥端成慧大居士 |
墓所 | 済海寺→新潟県長岡市の悠久山 |
官位 | 従五位下、阿波守、駿河守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 近江膳所藩→越後長岡藩主 |
氏族 | 本多氏→牧野氏 |
父母 |
父:本多康慶、母:清涼院 養父:牧野忠辰 |
兄弟 | 本多康命、忠寿、本多康敏 |
妻 |
正室:厚君(久我通名の娘) 側室:智峰院(丸山氏) |
子 |
陽源院殿梅譽香霊大童子(長男)、 忠周、八千代姫(本多康桓正室)、 明仙院(牧野忠敬正室) |
生涯
編集元禄8年(1695年)、近江膳所藩主・本多康慶の六男として生まれる。宝永7年(1710年)6月、越後長岡藩主・牧野忠辰の養嗣子となり、12月に従五位下、阿波守に叙任する。享保6年(1721年)8月25日、忠辰の隠居により家督を継いだ。11月に駿河守に転任する。享保8年(1723年)9月、内桜田門番となり、9月に奏者番となった。また、翌年には幕府領の魚沼郡や古志郡などの越後国の五郡、6万4000石余りを預かる。ちなみに越後質地騒動鎮圧のために、幕府は越後国内諸藩に対して越後国内の幕府領36万8000石をそれぞれ預けており、越後長岡藩も同様な理由で預かることとなった。
治世中は火災洪水に見舞われ、享保13年(1728年)の三蔵火事により長岡城が全焼したのを初め、延焼戸数1,500戸超の被害を出す。このために藩士の知行半分借り上げや藩士次三男の召抱え停止が行われ、一方で幕府から7,000両を借りて再建することになるが、再建完了は宝暦4年(1754年)のことで26年かかった。
三蔵火事の翌年の享保14年12月6日(1730年1月24日)に奏者番を辞任した。享保20年(1735年)6月の参勤交代の登城時に体調を崩し、同年10月2日に死去した。享年41。跡を次男の忠周が継いだ。墓所は東京都港区三田の済海寺。のち新潟県長岡市の悠久山に改葬。
人物
編集系譜
編集父母
正室
- 厚君 - 久我通名の娘
側室
- フヂ、智峰院 - 丸山伝兵衛の娘
子女
脚注
編集- ^ 『港区三田済海寺長岡藩主牧野家墓所発掘調査報告書』でのルビは「まきの ただなが」。