煩悩
煩悩(ぼんのう、サンスクリット語: क्लेश, kleśa、クレーシャ、巴: kilesa、キレーサ、英: Kleshas)とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う。同義語として、漏(ろ; aśrava、アーシュラヴァ、巴: asava、アーサヴァ)[1][注 1][注 2]、随眠(ずいめん; anuśaya, アヌシャヤ、巴: anusaya、アヌサヤ)、暴流(ぼうりゅう; ogha)[1]、軛(くびき; Yoga)[1]など、数多くの表現が用いられたりもする。
仏教用語 煩悩 | |
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パーリ語 | kilesa [キレーサ] |
サンスクリット語 | क्लेश (kleśa) [クレーシャ] |
チベット語 |
ཉོན་མོངས། (Wylie: nyon mongs; THL: nyönmong) |
ビルマ語 |
ကိလေသာ (IPA: [kḭlèθà]) |
中国語 |
煩惱 (拼音: fánnǎo) |
日本語 |
煩悩 (ローマ字: bonnō) |
朝鮮語 |
번뇌 (RR: beonnoe) |
英語 |
afflictions, destructive emotions, disturbing emotions, negative emotions, mind poisons, etc. |
クメール語 |
កិលេស (Keles) |
モンゴル語 | нисванис (nisvanis) |
タイ語 |
กิเลส (RTGS: Kilet) |
ベトナム語 | phiền não |
仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。釈迦は、まず煩悩の働きを止めるのは気づき(念)であり、そして根源から絶するものは般若(智慧)であると説いている[2][3]。
部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。
煩悩の数について
編集煩悩の根本に三毒がある。人生においてどのような局面がどのような煩悩となるかをよく知る(遍知)ため、後代にそれを細かく分析し修習の助けとしたものであり、「数」を突き詰めれば無限にあると考えられる。このため、「稠林」(森林のように数多の煩悩)とも表される。
日本では俗に煩悩は108あり、除夜の鐘を108回衝くのは108の煩悩を滅するためと言われる。実際には時代・部派・教派・宗派により数はまちまちであり、少なくは3、多い場合は(約)84,000といわれる。
心所の区分から言えば、
- 上座部仏教(分別説部、『アビダンマッタ・サンガハ』)では、不善心所の14種
- 説一切有部(『倶舎論』)では、大煩悩地法(6)・大不善地法(2)・小煩悩地法(10)・不定地法(8)の計26種
- 大乗仏教の唯識派・法相宗(『唯識三十頌』)では、煩悩心所(6)・随煩悩心所(20)・不定心所(4)の計30種
を煩悩とみなすことができる。
基本
編集三毒
編集煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は、
の3つとされ、これをあわせて三毒(さんどく)と呼ぶ。三毒の中でも特に痴愚、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
煩悩は、我執(自己が実体的に存在すると考えて執着すること[4])から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる(日常語の愛と意味が異なることを注意)。
五蓋
編集の5つを、五蓋(ごがい)と呼ぶ。蓋とは文字通り、心を覆うものの意味であり、煩悩の異称。
これらは比丘の瞑想修行の妨げになるものとして、取り除くことが求められる。
五下分結・三結
編集修行者を欲界(下分)へと縛り付ける煩悩を、五下分結(ごげぶんけつ)と呼ぶ。結とは束縛の意。
この5つの内、3.〜5.の3つを特に三結(さんけつ)と呼び、これらは四向四果の最初の段階である預流果において、早々に絶たれることになる。
五上分結
編集修行者を色界・無色界(上分)へと縛り付ける煩悩を、五上分結(ごじょうぶんけつ)と呼ぶ。
- 色貪(しきとん) - 色界に対する欲望・執着
- 無色貪(むしきとん) - 無色界に対する欲望・執着
- 掉挙(じょうこ) - (色界・無色界における)心の浮動
- 慢(まん) - 慢心
- 無明(むみょう) - 根本の無知
この5つを絶つことで、四向四果の最終段階である阿羅漢果へと到達できる[5][6]。
三漏
編集相応部漏経では、釈迦は以下の三つの漏(asava)を挙げている[1]。
四暴流・四軛
編集ブッダゴーサによると、釈迦は渇愛を川に喩え、「川の流れ」すなわち暴流(ogha)を渡って彼岸に至ることを涅槃と位置づけた[7]。四暴流は四漏ともされる。これら四暴流を絶つ道は、八正道であると釈迦は述べている[8]。
Cattārome āvuso oghā: kāmoso bhavogho diṭṭhogho avijjogho. Ime kho āvuso cattāro oghāti.
友よ、これら四つの暴流がある。欲暴流、有暴流、見暴流、無明暴流。友よ、これらが四暴流である。
Cattāro'me bhikkhave yogā. Katame cattāro? Kāmayogo bhavayogo diṭṭhiyogo avijjāyogo.
比丘たちよ、これら四つの軛がある。いかなる四か。欲軛、有軛、見軛、無明軛である。
四軛(しけつ)とは、四つの軛(くびき,Yoga)のことであり、同じく煩悩を指す[1]。
諸説
編集説一切有部
編集説一切有部では、煩悩を分析し、見惑と修惑(思惑)とに分け、また貪・瞋・癡・慢・疑・悪見の6種を根本煩悩とした。さらに、付随する煩悩(随煩悩)を19種数える。
九十八随眠
編集また説一切有部では、『倶舎論』「随眠品」などにも見られるように、伝統的に煩悩(随眠)を九十八随眠として表現することもある[9]。
これは、貪・瞋・痴・慢・疑・見の六随眠を起点とし、三界の内の欲界に32、色界・無色界にそれぞれ28、計88の見惑(見道所断によって断たれる煩悩)を配置し、更に10の修惑(修道所断によって断たれる煩悩)を加えて、九十八随眠としたものである。
これに十纏とよばれる10の煩悩を付け加えたものが、俗に108つの煩悩と呼ばれているものである。
唯識派・法相宗
編集大乗仏教の瑜伽行派(ゆがぎょうは)では、上記の根本煩悩から派生するものとして、20種の随煩悩を立てた。
瑜伽行派の後継である東アジアの法相宗もこの説に従う。
如来蔵思想
編集如来蔵思想では、煩悩とは本来清浄な人間の心に偶発的に付着したものであると説く(客塵煩悩〈きゃくじんぼんのう〉)。この煩悩を智慧によって断滅し、衆生が本来もっている仏性を明らかにすること、すなわち煩悩の束縛を脱して智慧を得ることが、大乗仏教の求める悟りにほかならない。
菩薩の四弘誓願(しぐぜいがん)に「煩悩無量誓願断」が立てられているのは、煩悩を断ずることが大乗仏教の基本思想であることを示す。
しかし人間は所詮、煩悩から逃れられぬというところに観念し、煩悩をあるがままの姿として捉え、そこに悟りを見出だそうとする煩悩即菩提の考えが、鎌倉時代以降の日本仏教の中で大きな思想的位置を占めるようになった。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d e 安藤淑子「原始仏教の教理項目に現れる kāma と bhava について」『佛教大学大学院紀要 文学研究科篇』第47巻、2019年、49-66頁、NAID 120007025434。
- ^ 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か』新潮社、2015年4月、125頁。ISBN 978-4103391715。
- ^ スッタニパータ,section:1035
- ^ 「我執」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』 。コトバンクより2022年3月1日閲覧。
- ^ a b 藤本晃. “悟りの階梯”. 日本テーラワーダ仏教協会. 2014年5月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年5月5日閲覧。
- ^ a b ビク・モネイヤ(著); 仏教文献翻訳の会(翻訳) (2010年6月). “パオ森林僧院における教えと修行” (PDF). 仏教文献翻訳の会. 仏教文献. pp. 33-34. 2014年5月5日閲覧。
- ^ Thero Ven Randombe Suneetha (2018). “On the Metaphor of the Raft in the Mahāparinibbānasutta”. The Annals of the Research Project Center for the Comparative Study of Logic 15: 173-181. NAID 120006517938.
- ^ パーリ仏典, 相応部 ジャンブカーダカ相応 暴流問経, Sri Lanka Tripitaka Project
- ^ 藤本庸裕「見所斷の隨眠における貧・瞋・慢・無明の史的背景について」『東洋の思想と宗敎』第32巻、早稻田大學東洋哲學會、2015年3月25日、25-38頁、NAID 120005819890。