瀬川清治
瀬川 清治(せがわ せいじ、生年不明 - 1941年12月14日?)は、日本の陸軍軍人、スパイ。
瀬川清治 | |
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生誕 |
生年不明![]() |
死没 |
1941年12月14日 イギリス領マラヤクランタン州テレマンガン、あるいはタイバンコク |
所属組織 |
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陸軍中野学校三期生。太平洋戦争においてF機関工作員としてタイに潜伏、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市の指揮でマレー作戦に従事。オーストラリア兵と交戦、F機関初の戦死者となったとされる[1]。
経歴
編集1941年時点の階級は少尉。同年9月18日、瀬川は参謀総長の命により藤原岩市少佐とともにタイへ潜行。10月24日、雑貨商、三菱商事社員に扮し、タイ国首都バンコクに到達。通訳としてF機関員にされた学生、石川義吉に体操、駆け足、格闘技、ピストルの射撃訓練を指導する[2]。太平洋戦争開戦直前の12月3日、藤原の命により土持則正大尉、米村弘少尉等とともに工作発動の拠点であるタイ南部ハジャイに進出。開戦当日の12月8日、シンゴラに上陸した日本軍を迎え、進軍に向け誘導するなど支援活動を行う。12月12日、シンゴラでの作戦がひと段落すると、藤原とともにタイ領ヤラに転身。現地で民間工作員の永野、インド独立連盟、マレー青年連盟メンバー十数名と合流しマレー半島ケラタン州に進出、国境を突破し13日にコタバル方面に上陸した佗美支隊と接触。14日、クアラクライを目指して敵中へ潜入、マレー人、インド人兵士を英軍から離反させる。更に敵後方の工作を志し、土着民に扮して小野、橋本と共にテレマンガン町に進出、マレー人工作員を本部へ移動させた直後、オーストラリア兵に発見され、交戦状態となる。瀬川の装備は小型拳銃のみであり、接戦を敢行。敵による手榴弾の投擲と爆発により戦死したと伝えられた。享年23歳。藤原はF機関副官の山口源等中尉をコタバルに派遣したとされ、瀬川の遺体を収容、現地で火葬したとされる[3]。石川によると、瀬川の通夜はタイピンの「Raja Rest House」で行われた。マレー作戦のため、他のF機関員は任務に奔走し、遺骨の管理人は藤原と石川の二人きりとなった。二人はダブルベッドで休んだが、藤原は独り言のように石川に作戦のことを語りかけ、起き上がると、マントルピースの上に安置された遺骨に再び線香を灯して泣いたという。この時片方の線香はまだ絶えていなかった[4]。瀬川を失った永野、橋本は佗美支隊を先導し、英軍が橋を壊した河岸まで日本軍が進出すると、現地人を指揮して渡河材料を集積する活躍を見せたとされる。瀬川の遺骨はシンガポール陥落直後、藤原の胸に抱かれて凱旋したとされる。瀬川の戦死は鎌浦留次により、中野学校の精神的な教材となった[5]。
事故死説
編集開戦直前の1941年11月、陸軍中野学校出身者で僧侶資格を持つ長尾実然少尉は、教官から瀬川の遺骨を遺族に渡すよう命じられたとされる逸話がある。長尾は瀬川と同期で困惑したが、教官から「貴官にあたえられた命令は、友の死因を詮索することではない。供養し、遺骨を引き渡すことである。行き給え」と命じられた。長尾はこの時長髪に背広姿でお経を唱えに来たため遺族から不思議に思われ「あなたは軍の方ですか、それともただのお坊さんですか」と質問された。長尾が「どうしてですか?」と返すと「軍の方なら話がある。この遺骨は受け取れません」と返事がきた。この遺族は瀬川の叔父であったが、この時点で瀬川の戦死した日時、場所が伝えられていないこと、部隊長からお悔やみ状がないことから不名誉な死を遂げた可能性も含め、不審に感じたことを長尾に伝えた。また瀬川の実家が貧困で、軍装の用意に苦労したのに台湾から梱包で送り返されたことについても憤りがあるのを伝えた。長尾は瀬川が中野学校出身者であるのを伏せつつ、軍の命令でお経をあげにきたことを強調し、平身低頭で納得させたという。瀬川の死亡場所はタイのバンコクで、中野学校研究者の畠山清行によると、瀬川は手榴弾の操作をインド独立運動の青年に教えているうち、その爆発でインド人をかばうように絶命したのだという。この事故死については陸軍中野学校関係者やF機関関係者が戦後出版した著書では触れられておらず、戦死した情報が流布した。畠山も瀬川が”戦死”した内容を自著に掲載したことを認めている[6]。また、瀬川がハリマオこと谷豊と比べて無名であること、瀬川の同行者とされる永野、橋本について記録が不十分であること、瀬川の火葬に関わった山口が1984年に脳卒中の発作で半身不随となり回想録の執筆を断念した等の事情により詳細不明のまま今に至る[7]。
人物
編集陸軍中野学校在学当時の瀬川は、姿勢温厚、上官や同僚から信頼される人柄であったという。余暇があるときは母親に土産を準備し、「この粕漬は一名顎落としと申します。余りおいしくて食べた人が皆顎を落とすそうです。清治はお母さんが一箸食べては笑い、三箸目には顎をかかえて召し上がるのを見たくてたまりません」と愛情あふれるハガキを書いて送っていたという[8]。
脚注
編集- ^ 田中正明『光また還える : アジア独立秘話』(234頁)1994年
- ^ 長崎暢子『資料集インド国民軍関係者証言』(51頁)2008年
- ^ 畠山清行『大戦前夜の諜報戦 : 陸軍中野学校シリーズ』(178頁)1967年
- ^ 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム『日本の英領マラヤ・シンガポール占領 インタビュー記録 ( 南方軍政関係史料 33 )』(53₋54頁)1998年
- ^ 中野校友会『陸軍中野学校』(398₋400頁)1978年
- ^ 畠山清行『陸軍中野学校6(続ゲリラ戦史)』(86₋95頁)1974年
- ^ 長崎暢子『資料集インド国民軍関係者証言』(447₋457頁)2008年
- ^ 伊藤貞利『中野学校の秘密戦 : 中野は語らず、されど語らねばならぬ 戦後世代への遺言』(191₋195頁)1994年