土持則正
土持 則正(つちもち のりまさ、生年不明 - 1994年12月13日)は、日本の陸軍軍人、スパイ、陸上自衛官。
土持 則正 | |
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生誕 |
生年不明![]() |
死没 | 1994年12月13日 |
所属組織 |
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軍歴 |
? - 1945(日本陸軍) ? - ?(陸自) |
太平洋戦争においてF機関工作員としてタイに潜伏、インド国民軍の編成や戦後のインド独立に影響を与えた藤原岩市の指揮でマレー作戦、ビルマ作戦に従事。
経歴
編集宮崎県都城市出身。陸士49期[1]。日中戦争に少尉として従軍、正定城攻略戦では日本刀を手に白兵戦を敢行する。機関銃や迫撃砲攻撃の最中、手榴弾を投げる敵に太刀をふるった(証言者の福田清造伍長も銃剣で二人倒す程であった)[2]。その後、陸軍中野学校で訓練を受ける。1941年時点の階級は大尉。同年10月に藤原少佐の傘下でF機関(藤原機関)の工作員となる。タイ潜伏後、土持は大南公司社員の中国人、林静胡と名乗り[3]、シンゴラ領事館に出入りする[4]。10月末頃、土持は魚売りに変装したハリマオこと谷豊とも接触した[5]。太平洋戦争が開戦すると、土持はマレーへ進出。ハジャイでは自動車運転手として活動した。この時F機関は英印軍内のインド兵を対象に離反工作を展開し、多数の投降者を日本側に引き入れる活動をしていた。土持は中宮悟郎中尉、米村弘少尉、国塚一乗少尉とともにインド兵捕虜に教育を行い、寝返り工作に活用させた。F機関は投降したインド兵を懐柔し、後にモーハン・シン少将が率いるインド国民軍へ発展させた。1942年2月25日、藤原機関ビルマ工作班の班長として活動[6]、石川義吉、滝村正巳軍曹、マレー語通訳の北村義人[7]の4人を率いた[8]。尚、この異動により土持は豊の最期に立ち会うことができなかった[9]。同年、岩畔機関へ編入、総務担当。終戦時は少佐[10]。
戦後
編集終戦後、公職追放処分を受ける[11]。戦後間もなく、土持は郷里の都城市で会社づとめをしながら旧部下の富田元曹長を使い、光機関の服部徹元少佐を船主として台湾の密貿易を企てていたとする説があるが、詳細は不明[12]。 1954年頃に陸上自衛隊へ入隊。第4特連隊、8混観察隊長を経て、1965年時点で2等陸佐、宮崎地連部長[13][14]、中部方面募集課長[15]。 陸上自衛隊退官後、伊丹3Dの経理委員首座として悠々自適に過ごす。土建会社重役の風格ありと評された[16]。1994年12月13日、5年の直腸癌による闘病の末、逝去[17]。
脚注
編集- ^ 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年、243頁。
- ^ 南日本新聞社『鹿児島百年 下』(187頁)1968
- ^ 中野校友会『陸軍中野学校』(388頁)1968
- ^ 畠山清行『大戦前夜の諜報戦 : 陸軍中野学校シリーズ』(171頁)1967年
- ^ 中野不二男『マレーの虎 ハリマオ伝説』(101₋105頁)1988年
- ^ 中野校友会『陸軍中野学校』(407頁)1968
- ^ 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム『 日本の英領マラヤ・シンガポール占領 インタビュー記録 ( 南方軍政関係史料 33 )』(373頁)1998年
- ^ 藤原岩市『藤原(F)機関』(233頁)1966年
- ^ 中野不二男『マレーの虎 ハリマオ伝説』(120頁)1988年
- ^ 伊藤貞利『中野学校の秘密戦 : 中野は語らず、されど語らねばならぬ 戦後世代への遺言』(187頁)1984年
- ^ 総理庁官房監査課 『陸修偕行社資料公職追放:「公職追放に関する覚書該当者名簿」復刻1』(172頁)1988年
- ^ 真相社『真相 特集版16』(49頁)1950年
- ^ 防衛産業協会『自衛隊年鑑 1964年』(1016頁)1964年
- ^ 防衛産業協会『自衛隊年鑑 1965年』(984頁)1965年
- ^ 陸修偕行社『偕行 : 陸修偕行社機関誌 (170);8月号』(984頁)1965年
- ^ 陸修偕行社『陸修偕行社機関誌 (211);1月号』(69頁)1969年
- ^ 陸修偕行社『陸修偕行社機関誌 (530);平成7年2月号』(85頁)1995年