モーハン・シン

インドの軍人

モーハン・シン (英語: Mohan Singh1909年1月3日 - 1989年12月26日)は、イギリス陸軍インド人将校、インド独立運動家。

モーハン・シン
英語: Mohan Singh
藤原岩市と握手するモーハン・シン(1942年)
生誕 1909年1月3日
イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国 パンジャーブ州シアールコート、ウゴケ(現在のパキスタン)
死没 (1989-12-26) 1989年12月26日(80歳没)
出身校 プリンス・オブ・ウェールズ・インド人士官学校
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太平洋戦争中、F機関の工作で日本軍に帰順し、インド独立運動のメンバーとなり、第二次世界大戦中に東南アジアインド国民軍を設立した。日本語でモン・シン、モハン・シングと表記されることもある[1]

人物・来歴

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出自

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パンジャーブ州の軍人家庭に生まれる。デーラ・ダンのプリンス・オブ・ウェールズ・インド人士官学校を卒業した。その後バーバ・カラク・シンに心服し、インド独立運動に本腰を入れるため軍籍を離れようとしたが、仲間から機会を待った方が良いと訓される[2]

開戦直前

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シンは、1941年時点で英印軍の第十五旅団第十四パンジャブ連隊の副隊長であった。3月に旅団はペナン島へ上陸し、そこからマレーのペラク州イッポ―に進出した。2か月後、旅団はマレーとタイ国境にあるスンゲイ・バタニへ移動、9月にアロルスター守備陣地の北方、ジットラへ移動した。そこは沼地のジャングル地帯で、急いで進軍するのが困難な難所であった。シンは11月末には3週間の休暇を与えられたが、事態が緊迫したため12月4日に大隊に呼び戻された。シンは休暇の最後の晩に宴会を開き大いに飲んだ。宴会の終わりにシンはパンジャップ地方の言葉で「どんなことが起こるか自分は知らない。しかし一つだけは確かである。それは自分は死ぬ気がないということである。そして私が今守るべき英軍そのものと戦って諸君の解放者となるのを見ても驚く必要はないぞ」と叫んだ。シンは理性に富んだ若人と見られており、周囲を周囲を驚かせる発言であった。この頃英軍ではマレーからタイ国に前進する場合には、12月7日晩にシンゴラを占領する命令が伝達されていた。しかしシンゴラは既に日本軍が掌握されている状況であった[3]

太平洋戦争開戦

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12月8日、27機の日本の爆撃機がアロルスター飛行場と、タイ国境をつなぐ鉄道を爆撃した。第十五旅団はタイ国境へ突撃したが、間もなく日本軍がタイ国を通ってマレーへ侵攻してきた。日本軍は戦車でシンとその大隊を奇襲攻撃した。シンはフィッツパトリック中佐の命令で旅団司令部に出頭し、到着したグルカ人旅団の配備先を決めるよう命じられた。12月11日、シンの大隊は日本軍の戦車隊に襲撃され、弾薬を積載したトラック10台が破壊された。インド人部隊は瓦解し、道路両側のジャングル内に逃げ込んだ。泥まみれになったシンのもとに、フィッツパトリックがよろめきながら近づき「私は負傷した。私のことをどうにでもしてくれ」と言って拳銃を渡してきた。シンはイギリス人の拳銃を泥の中へ投げ棄てた。ちょうどその時日本軍の戦車が1両やって来た。シンは大きな木の陰に隠れ、戦車兵に向かってにやりとわらって顔を見せたり、手を振って挑発した。戦車の方は1発撃ってきた。フィッツパトリックを見失ったシンは、その後3日間、ジットラのゴムの密林の中で思索にふけった[4]

投降、藤原岩市との出会い

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その頃、マレー半島では藤原岩市少佐、プリタム・シン率いるF機関が英印軍兵士の懐柔工作を展開していた。投降兵による降伏勧告が効果を発揮し、日本軍の前線には両手をあげるインド人将兵の投降が相次いだ[5]

F機関がアロルスターに進出すると、懐柔工作で演説していたプリタム・シンのもとに、タニコンの村に英印軍の一個大隊が逃げ込んだ情報が現地シーク人から寄せられた。情報提供者は裕福なゴム林の所有者であった。この大隊は疲労して空腹状態にあり、アロルスター占領の事実を知って戦意を失っている状態であることのことだった。この部隊は大隊長だけがイギリス人で、シンの部隊でもあった[6]。1月14日未明、藤原はプリタム・シン、土持大尉、太田黒通訳の3人を伴い、自動車で非武装のまま村へ向かった。そこで藤原はフィッツパトリック中佐を説得し、降伏に成功した。この時、藤原は武装解除を手際よく進めたシンを見て強い関心を抱いた。

藤原とプリタム・シンは将校全員を植林地の家へ招き、日本軍の目的とインド独立闘争の計画を説明した。将校を納得させると、植林の所有者からトラックを借用し、F機関の旗を振りながら彼らをアロルスターへ移送した。道中旗を見たインドの落伍兵が乗り込んできた。藤原は疲労し、隣のインド人の肩に頭が落ちてくるような状態だった。アロルスターの警察宿舎に到着すると、インド将兵はそこで収容されることとなった。この時町の治安は乱れ、マレー人やインド市民が華僑の家を襲撃している状況であった。藤原は投降したばかりのシンの器量を見込み、空白になった市の治安維持を彼とその部下に命じた。そしてアグナム大尉を治安隊長に命じ、80名を数名ずつの班に編成し、こん棒と手錠を武器代わりに出動した[7][8]

インド国民軍の創設

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藤原は日々増えるインド兵捕虜を見て革命軍を組織するまたとない機会と思うようになり、シンに奮起を促した。藤原から信頼を得ていたシンは対英武力闘争の条件として以下の内容を提示しインド国民軍の編成をに着手した。

  1. 日本軍はインド国民軍を全面的に支持する。
  2. 日本軍はインド兵捕虜の指導をシンに一任する。
  3. 日本軍はインド国民軍参加を希望する捕虜は釈放する。
  4. 日本軍はインド国民軍を同盟関係の友軍とみなす。

シンが提案した覚書を藤原が山下奉文中将に報告すると、山下は4の条件を除いて承諾した。

シンは300人の部下を集め、イポーのセント・アンドリュース学校に向かった。そこで5、6人ずつの班に分け、敵中潜入の工作訓練を行った。このグループはFの標識をつけ、シンが作成した「印度将兵に告ぐ」というビラを服に縫い付け、英人がいないインド兵部隊を捜索して説得し、投降を促す工作を行った。クアラルンプールでは日本の監視兵がないまま50人、100人規模のインド投降兵が行進する光景が見られた。1月18日頃の時点でインド兵捕虜は2500人に達し、遠藤三郎中将率いる第三飛行集団司令部を支援するため、破壊された飛行場の復旧を行った[9]

シンガポール陥落後の2月17日午後、日本軍はインド兵約5万人をファラ・パークの競馬場に集め降伏式を行った。藤原はシンとプリタム・シンに相談し、降伏式用の草文を用意した。

藤原が演説をすると、国塚一乗が英語で通訳し、N・Sギル中佐がヒンズー語で訳した。藤原が「諸君がインド国民軍に参加されることを希望する。日本軍は諸君を捕虜と見做すことなく、友人として取扱う。われわれは諸君の戦闘を自由獲得のための闘争と見做し、諸君に全力を挙げて援助を与える積もりである」と結ぶと、インド人の聴衆は興奮して一斉に歓声をあげた。そのあと、プリタム・シン、モハン・シンがマイクの前でそれぞれ絶叫した。

シンはイギリス軍への誓いを破棄して自由インドに新しい誓いをすることは道徳的であり、宗教にも合することであると教え、従属との間に妥協はない筈だと説いた。シンはギル中佐を捕虜の指揮官に任命し、ニースン・キャンプ内にその本部を設置し、負傷兵の治療やインド国民軍の志願者をつのった。シンはF機関本部近くのプレザント山に自身の司令部を置いた。 翌2月18日、シンガポールの多数の組織に属するインド人が集まり、F機関のメンバーを食事に招待した。更に翌日、数千名のインド人が藤原、シンらの演説を聴きにファラ・パークに押し寄せ、愛国心の情熱で満ち溢れた[10]。インド国民軍が発足すると志願者には上級階級の者もいたため、司令だったシンは大尉から少将へ特進することとなった[11]

インド独立運動内部の派閥争い

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インド独立運動が軌道に乗ると、少人数だったF機関は解消され、後継の拡大組織として岩畔機関が発足した。大本営はアジア各地からインド人代表を東京へ集結させ、山王ホテル会議を開催した(東京山王会議)。この会議は日本へ亡命していたラース・ビハーリー・ボースが企画するものであった。しかし、モハン・シンと日本軍の仲介役であったプリタム・シンが来日中に飛行機事故で死亡する悲劇がおきた。また、シンガポールで発足したインド国民軍やインド独立同盟からは”日本化”した存在と見なされた。また、インド独立連盟の政治的要求に対し、日本政府は岩畔豪雄を通じて「趣旨了承…要請実現に努力する」と曖昧な回答した。一方で日本へ亡命していたA.M.ナイルはモハン・シンが親イギリス的志向が強く、軍内において自身に対する個人的利益を優先させる存在と見なした[12]。またモハン・シンはインドに新妻を残しており、英国からの圧迫を気にかけていたという[13]

不祥事

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シンガポールではインド国民軍師団の中に英軍の高射砲を有する部隊があった。これに目を付けた日本の参謀本部は、東南アジアからの資源物資を日本へ輸送するにあたり、各輸送船に1、2門の高射砲と兵士を配置させようとした。インド兵はこれを協定違反であるとし、何時間も波止場に座り込み、無言で抵抗した。シンの通報で藤原が介入し、参謀本部は命令を撤回したという[14]

また、南方総軍では、ビルマ方面の戦力増強を図るためインド国民軍の輸送が企図された。ラース・ビハーリーは兵員の乗船命令を発したが、シンは日本側に誠意のが期待できないことを理由に拒否した[15]

シンの不満はインド国民軍内部にも伝染し、不規律や対敵通牒者の招来が生じた。インド国民軍幹部のN・S・ギル中佐はバンコクで対印諜報機関を展開したが、ギルの信任が厚かったディロン少佐が英軍側へ逃亡し、通牒の内容がニューデリーの短波放送で宣伝された。これはラース・ビハーリー率いるインド独立運動が日本の傀儡だと批判し、インド独立連盟内部で対立抗争が激化しているといった内容であった。嫌疑をもたれたギルは、岩畔、藤原らの前で訊問させられた。問答後、岩畔は「よおし、これまで。直ちにギル中佐及び配下の組織員は憲兵隊に連絡し、逮捕拘置せよ」と厳命を下した[16]。ギルはシンガポールで投獄された。

罷免、流刑

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岩畔はラース・ビハーリーと協議し、インド国民軍の瓦解を防ぐためシンの逮捕を決定した。そして説得役として藤原が買って出た。藤原は日課の乗馬運動の帰りにシンの官邸へ向かった。密談はシンの個室で2時間続けられた[17]。シンは「あなたがタイピンで僕と約束したときは、こんなはずではなかった」と失意を明かした。藤原は「僕が微力なばかりに……申し訳ない」と謝罪した。二人の目には涙があふれ、男泣きに泣きながら別れを惜しむこととなった。

シンは諦めきったように「藤原さん、私はあなたの顔をみてしまっては、何もいえません。俘虜の私を救って下さったのはあなただけでした。熱心に決起を促したのもあなたでした。私はまたもとの俘虜の身にかえりましょう」と言い、寂しく自嘲の笑をもらしたという。1942年12月21日、シンはビハーリーの命令で岩畔機関長官邸に出頭した。ラース・ビハーリーと岩畔は強張った表情で、2階の応接室に突っ立っていた。

インド国民軍司令官の罷免を通告させられたシンは官邸を出るや憲兵に連行され流刑となった[18]。流刑先について田中正明はウビン島とし、シンガポール攻略の際、近衛師団とともにシンが部下を率いて上陸し、夜襲をかけた場所であったと記述している[19]

しかし、F機関員の国塚一乗セント・ジョン島だとし、同年末にシンを慰めるためインドの食品を用意して同島を訪れている。シンは遠戚のラタン・シン中尉や召使いと過ごしており、鶏をつぶして国塚に夕食をふるまった。

日本はインド独立運動をまとめるため、インド人の推挙に従いスバス・チャンドラ・ボースをドイツから潜水艦で呼び寄せた。シンはインド国民軍に復帰することもなく、スマトラ島の山中に移され、そこで終戦を迎えた。藤原とシンが戦争中まみえることはなく、再会は1954年に藤原がインド訪問時であった[20]

戦後

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1978年4月17日、NHKテレビで月曜特別番組として、「進め!デリーへ」と題した番組が放送された[21]。これは磯村尚徳をはじめ取材陣が現地したもので、藤原の斡旋でインド国防軍当局や、英軍事裁判の被告であった将校、当時ボース記念館を運営していたチャンドラ・ボースの甥の全面的な協力を得たものであった[22]

番組では藤原のインタビューの他に国会議員に出世していたシンも登場し、インド人将兵に向けたファーラー・パークでの演説をNHKの依頼で本人自ら再現した。収録は1分を予定していたが熱演のあまり5分過ぎても終わらず、広場一面にヒンズー語が響きわたっていたという[23]。尚、NHKが組織的、計画的に番組の保存を始めたのは1981年からであり、本番組はその前に撮影されたため映像が現存するかは不明である[24]

脚注

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  1. ^ 宗像太郎坊『ある軍医ののらくら戦記』(102頁)1981年
  2. ^ 谷口栄業『民族の闘魂』(75頁)1943年
  3. ^ ジョイス・C.レプラ『チャンドラ・ボースと日本』(18₋19頁)1968年
  4. ^ ジョイス・C.レプラ『チャンドラ・ボースと日本』(21₋22頁)1968年
  5. ^ 児島襄『誤算の論理 : 戦史に学ぶ失敗の構造』(434頁)1987年
  6. ^ ジョイス・C.レプラ『チャンドラ・ボースと日本』(22頁)1968年
  7. ^ 田中正明『雷帝東方より来たる』(310₋312頁)1979年
  8. ^ ジョイス・C.レプラ『チャンドラ・ボースと日本』(23頁)1968年
  9. ^ 宗像太郎坊『ある軍医ののらくら戦記』(100₋102頁)1981年
  10. ^ 児島襄『チャンドラ・ボースと日本』(44⁻48頁) 1968年
  11. ^ 児島襄『誤算の論理 : 戦史に学ぶ失敗の構造』(434⁻435頁)1987年
  12. ^ 『知られざるインド独立闘争—A.M.ナイル回想録(新版)』 河合伸訳、風涛社、2008年
  13. ^ 国塚一乗『印度洋にかかる虹 : 日本兵士の栄光』(50頁)1958年
  14. ^ 軍縮市民の会『軍縮問題資料 (2)(171)』(61‐62頁)2007年
  15. ^ 国塚一乗『印度洋にかかる虹 : 日本兵士の栄光』(108頁)1958年
  16. ^ 中野校友会『陸軍中野学校』(108頁)1978年
  17. ^ 国塚一乗『印度洋にかかる虹 : 日本兵士の栄光』(110頁)1958年
  18. ^ 国塚一乗『印度洋にかかる虹 : 日本兵士の栄光』(110頁)1958年
  19. ^ 田中正明『アジア独立への道』(324‐326頁)1991年
  20. ^ 国塚一乗『印度洋にかかる虹 : 日本兵士の栄光』(111‐114頁)1958年
  21. ^ 『NHK特集 あの時・世界は… 磯村尚徳・戦後世界史の旅』”. NHKアーカイブス. 2024年12月21日閲覧。
  22. ^ 木ノ下甫 藤原岩市『戦後史を見直す』(32-50頁)1979年
  23. ^ NHK取材班 編『あの時、世界は… : 磯村尚徳・戦後史の旅 1』(258-259頁)1979年
  24. ^ 『アーカイブス編:貴重な映像資産を次世代に伝える』”. NHKアーカイブス. 2024年12月21日閲覧。

関連項目

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