澤梅谷
澤 梅谷(さわ ばいこく、文久元年(1861年)9月5日 - 昭和3年(1928年)7月16日)は、三河国刈谷(現・愛知県刈谷市)出身の画家(南画)。名は理、字は黄中、通称は理喜三郎(りきさぶろう)、画号は梅谷[1][2][3]。
澤 梅谷 | |
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生誕 |
文久元年(1861年)9月5日 三河国刈谷(現・愛知県刈谷市) |
死没 | 昭和3年(1928年)7月16日) |
教育 |
山本梅荘 滝和亭 |
著名な実績 | 南画 |
経歴
編集文久元年(1861年)9月5日、三河国刈谷町(現・愛知県刈谷市)に生まれた[3][4]。幕末の志士である松本奎堂の従甥にあたり、父は刈谷藩の大監察である澤健次郎俊盛である[3][4]。特に漢学に秀でており、愛知県知多郡の小学校に勤務したほか、私塾で漢籍の素読を講じた[1][2][3][4]。
やがて画道を志し、知多郡半田町の山本梅荘に師事して南画の指導を受け、明清の風景画を模写するなどした[1][2][3][4]。三河土井家の第13代子爵である土井忠直の命によって、1887年(明治20年)頃には旧刈谷藩領の寺社仏閣や名所など約50枚の写生画を提出している[3]。後に東京に出て、滝和亭に師事して花鳥の画法を学び、さらには動植物を写生した[1][2][3][4]。
展覧会
編集脚注
編集参考文献
編集- 『澤梅谷画伯の画稿にみる明治20年代(約100年前)の刈谷・知立』刈谷市郷土文化研究会、1999年