潙山霊祐
唐代の禅僧
潙山霊祐(いざん れいゆう)は、中国の唐代の禅僧[1]。諡は大圓禅師。俗姓は趙。福州長渓県(福建省寧徳市霞浦県)の出身。法語として『潙山警策』がある。
潙山霊祐 | |
---|---|
大暦6年 - 大中7年1月9日 (771年 - 853年2月20日) | |
諡号 | 大圓禅師 |
生地 | 福州長渓県(福建省寧徳市霞浦県) |
宗派 | 潙仰宗 |
寺院 | 潙山同慶寺(湖南省長沙市寧郷市潙山郷) |
師 | 百丈懐海 |
弟子 | 仰山慧寂、香厳智閑[1] |
生涯
編集逸話
編集百丈禅師が潙山の開山を弟子の華林覚と霊祐のどちらかにさせようとした時に、浄瓶を指して「この浄瓶を浄瓶と呼んではならんとすれば、なんと呼ぶか」と問うたところ、華林覚は「木切れとはいえません」と返したが、霊祐は浄瓶を蹴り飛ばして出て行ってしまった[1]。霊祐の答えに満足した百丈禅師は霊祐を潙山の住持とした[1]。この故事を画題にした禅画に「潙山踢瓶図」などがある[1]。
脚注
編集伝記資料
編集外部リンク
編集- “祖師図(霊雲観桃・潙山踢瓶・三平開胸・石鞏張弓)”. 国立文化財機構. 2015年10月25日閲覧。
師:百丈懐海 | 潙仰宗 | 弟子:仰山慧寂、香厳智閑 |