源親治
平安時代末期の武将。子に源有治-源光治-源義治
源 親治(みなもと の ちかはる)は、平安時代末期の武将。下野権守・源親弘の子。宇野七郎とも名乗る。大和源氏の祖・源頼親から数えて五代目にあたる。
時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 永久4年3月3日(1116年4月17日) |
死没 | 文治2年8月7日(1186年9月21日) |
別名 | 宇野七郎 |
氏族 | 大和源氏 |
父母 | 父:源親弘 |
兄弟 | 親治、基親、基弘、基重、親満、伊予内侍、源義重正室ら |
子 | 有治、清治、満治、義治、親家、業治、頼基、季治ら |
略歴
編集大和国宇智郡宇野荘に住した。久安元年(1145年)、興福寺の衆徒が金峰山寺を攻めた時には、金峰山側について戦った。保元元年(1156年)に勃発した保元の乱において、崇徳上皇、藤原頼長方に加担。兵を率いて京に入ろうとするところを、警護にあたっていた敵方の平基盛に見咎められ、合戦の末に敗れて捕虜となる。本戦の間は獄舎に繋がれていたが、戦後赦免されて本拠の大和に帰された。これは、親治が大和国内で興福寺と対立関係にあることに目をつけた後白河天皇による、興福寺牽制のための政治的措置だったと言われている。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵の際は、息子を源頼政に応じさせた。
参考文献
編集- 安田元久編『鎌倉・室町人名事典』(新人物往来社、1985年)584頁