湯浅倉平
湯浅 倉平(ゆあさ くらへい、旧字体:湯淺 倉平󠄁、1874年〈明治7年〉2月1日 - 1940年〈昭和15年〉12月24日)は、日本の内務官僚・政治家。位階・勲等・爵位は正二位勲一等男爵[1]。初名は石川倉之丞。
湯淺 倉平󠄁 | |
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生年月日 | 1874年2月1日 |
出生地 | 山口県豊浦郡(現山口県下関市豊浦町)宇賀村 |
没年月日 | 1940年12月24日(66歳没) |
死没地 | 東京府牛込区 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
所属政党 | 同成会 |
称号 | 正二位勲一等男爵 |
在任期間 | 1936年3月6日 - 1940年6月1日 |
天皇 | 昭和天皇 |
在任期間 | 1933年2月14日 - 1936年3月6日 |
天皇 | 昭和天皇 |
在任期間 | 1929年11月22日 - 1933年2月15日 |
天皇 | 昭和天皇 |
在任期間 | 1925年11月22日 - 1927年12月23日 |
天皇 |
大正天皇 昭和天皇 |
在任期間 | 1916年10月5日 - 1929年11月22日 |
生涯
編集山口県豊浦郡宇賀村(現在の山口県下関市)に医師の子として生まれる。のち実父が福島県士族湯浅家の養子となったため、倉之丞も同家の戸籍に入って「湯浅倉平」と改称した[注釈 1]。豊浦中学、旧制山口高等学校を経て、1898年に東京帝国大学法科大学政治学科[注釈 2]卒業。成績は、40数人中8番であった[2]。同期に、下村宏や山川端夫などがいる。同年、内務省に入省。
岡山県知事・静岡県知事を経て、1915年に帝大時代の恩師でもある一木喜徳郎内相の推挙によって内務省警保局長に就任した。
1916年10月5日、貴族院議員(勅選・同成会所属)に任じられて[3]、原敬内閣の郡制廃止に反対論を唱えた。
1923年関東大震災が発生すると、後藤新平内相の招請により警視総監に任じられた[注釈 3]。震災後の混乱を鎮めるが同年12月の虎ノ門事件の責任を負って懲戒免官となる。しかし翌年には懲戒免官を解かれ内務次官として復職し、普通選挙法の制定に尽力した。
斎藤実朝鮮総督の下で1925年朝鮮総督府政務総監に就任。1929年会計検査院長。1932年の斎藤実内閣成立時には一時は内相候補に擬せられた[4][注釈 4]。
その後、1933年に宮内大臣に就任し、1936年に発生した二・二六事件では、岡田啓介総理安否不明、斎藤実内大臣死亡、鈴木貫太郎侍従長重体という未曽有の危機的状況の中、反乱将校たちの掲げる「昭和維新」に反対する立場から、昭和天皇を補佐。反乱将校に同情的な本庄繁侍従武官長とは異なる対応を見せた。事件直後の3月6日、殺害された斎藤の後任として[注釈 5][注釈 6]、内大臣に就任する。生前に爵位を持たず[注釈 7]、また閣僚経験もない湯浅の内大臣就任は、軍部や政党と一定の距離を置く穏健派で謹厳実直な人柄が評価されたためだった[注釈 8]。
内大臣時代は、老齢の元老西園寺公望を助けて宮中良識派の一員として陸軍の専横に対抗した[注釈 9]。ただ1937年には、宇垣一成が組閣の大命を受けながら陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に陸軍大臣を出さずに大命拝辞に至った際に、宇垣自ら「陸軍に陸相を出すように命じる詔勅を出してもらいたい」と申し出たのを「そういう無理をなさると血を見るような不祥事が起こるかも知れぬ」と断わり、自らが大命を主導した宇垣の組閣を流産させ、林銑十郎内閣の成立となり、軍部独裁への転換点となった。その直後に内閣奏薦手続が改訂され、内大臣が後継首班奏薦の第一責任者となり[注釈 10]、近衛文麿の第1次近衛内閣、平沼騏一郎首相の平沼内閣、阿部信行首相の阿部内閣の生みの親となる。
1940年に同じく親米英的な姿勢をとっていた米内光政前海軍大臣の首相就任を主導したが、その後病気により辞任[注釈 11]。その直後に米内内閣は陸軍が畑俊六陸相を単独辞職させて後任陸相の推薦を拒否したことから総辞職し、代わった第2次近衛内閣で日独伊三国同盟が成立して日本は反米英路線へ大きく舵を切ることになった。
湯浅は退任後半年、西園寺の死のちょうど1ヶ月後の1940年12月24日に牛込区の自宅において死去した。肺気腫を患っていたという。墓所は郡山市善導寺。
栄典
編集- 位階
- 勲章
- 1916年(大正5年)
- 1926年(大正15年)11月29日 - 勲一等瑞宝章
- 1934年(昭和9年)3月9日 - 勲一等旭日大綬章
- 1940年(昭和15年)6月7日 - 勲一等旭日桐花大綬章[10]
- 記念章
- 爵位
- 外国勲章佩用允許
- 1935年(昭和10年)9月21日 - 満洲帝国:満洲帝国皇帝訪日記念章[14]
著書
編集親族
編集ギャラリー
編集-
朝鮮総督府政務総監時代
-
湯浅倉平(昭和12年5月31日)
脚注
編集注釈
編集- ^ 書籍などで湯浅を「山口県出身」「福島県出身」とする2種類の記述が存在するのはこうした事情による。なお、墓所も山口県下関市及び福島県郡山市の2箇所にある
- ^ 現・東京大学法学部
- ^ 以前に就任していた警保局長からは降格人事となるが、治安回復のための「大物人事」だった
- ^ 結局は山本達雄が就任している
- ^ 本命視されていた近衛文麿は辞退した。次に、昭和天皇が外交に精通した人物を希望したため、松平恒雄が候補に挙がった。しかし、松平本人が内政には詳しくないと辞退したため、湯浅が内大臣に就任し、松平が宮内大臣となった。
- ^ 形式上は斎藤と湯浅の間に、湯浅就任直前の一日だけ一木喜徳郎が枢密院議長との兼務で就任。
- ^ 爵位のない近代内大臣は湯浅ただ一人。
- ^ ただし、上記の宮内大臣就任に際して、立憲政友会からは、「湯浅氏は民政党系の人で貴族院においても相当政党的に活動した人」と批判を受けたことはある(湯浅の属していた同成会は親民政党系会派とみられていた)。1933年2月16日付『東京朝日新聞』。
- ^ 『一軍人の生涯 提督・米内光政』(緒方竹虎著、文芸春秋新社)によれば、町野武馬(陸軍大佐、張作霖顧問)と湯浅が対談した際、町野が陸軍批判をしたところそれ以上の陸軍批判を行った。その場限りの話にしようとした町野に対し湯浅は「陸軍省でこのままお話になっても一向に差支えない」と答えた。町野は湯浅を「生きた英雄」と語っている。
- ^ 手続き上は「元老と協議の上」という文言はあった。(最後の元老だった西園寺公望は1940年に薨去)
- ^ 6月1日。後任は木戸幸一。
出典
編集- ^ a b 『官報』 第4193号 「授爵、叙任及辞令」 1940年12月27日。
- ^ “国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2024年5月9日閲覧。
- ^ 『官報』第1256号、大正5年10月6日。
- ^ 1932年5月23日付『東京朝日新聞』。
- ^ 『官報』 第4228号 「華族ノ栄典喪失」 1941年2月12日。
- ^ 『官報』第1849号「叙任及辞令」1933年3月2日
- ^ 『官報』第4020号「叙任及辞令」1940年6月3日
- ^ 『官報』第1038号「叙任及辞令」大正5年1月20日
- ^ 『官報』第1218号「叙任及辞令」大正5年8月21日
- ^ 『官報』第4025号「叙任及辞令」昭和15年6月8日
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」昭和5年12月28日
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第4193号「叙任及辞令」昭和15年12月27日
- ^ 『官報』第2725号「叙任及辞令」1936年2月4日。
- ^ 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第13版』帝国秘密探偵社、1940年。
- ^ a b 山崎義人 編著 編『郡山市図書館 45年の歩み(資料編)』郡山市中央図書館、1992年1月、115頁。全国書誌番号:92031776
- ^ 山崎義人 編著 編『郡山市図書館 45年の歩み(資料編)』郡山市中央図書館、1992年1月、2, 114-115頁。全国書誌番号:92031776
外部リンク
編集- 『湯浅倉平』 - コトバンク
- 湯浅倉平 資料紹介(一) - 下関市
公職 | ||
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先代 一木喜徳郎 |
内大臣 第9代:1936 - 1940 |
次代 木戸幸一 |
先代 水町袈裟六 |
会計検査院長 第9代:1929 - 1933 |
次代 河野秀男 |
先代 下岡忠治 |
朝鮮総督府政務総監 第5代:1925 - 1927 |
次代 池上四郎 |
先代 井上孝哉 |
内務次官 第28代:1924 - 1925 |
次代 川崎卓吉 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 湯浅(倉平)家初代 1940年 |
次代 栄典喪失 |