温泉あんま芸者
この項目には性的な表現や記述が含まれます。 |
『温泉あんま芸者』(おんせんあんまげいしゃ)は、1968年の日本映画。製作:東映京都撮影所、配給:東映。公開時はR-18(成人映画)指定[1]だったが、2019年の再審査ではG指定[2]となっている。
温泉あんま芸者 | |
---|---|
監督 | 石井輝男 |
脚本 |
石井輝男 内田弘三 |
出演者 |
吉田輝雄 橘ますみ 三原葉子 三島ゆり子 高倉みゆき 賀川雪絵 應蘭芳 |
音楽 | 八木正生 |
撮影 | 吉田貞次 |
製作会社 | 東映京都撮影所 |
配給 | 東映 |
公開 | 1968年6月28日 |
上映時間 | 89分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
次作 | 温泉ポン引女中 |
石井輝男監督による『徳川女系図』に続く"異常性愛路線"第2弾で[3][4][5][6]、"東映温泉芸者シリーズ"第一弾[7][8][9]。
あらすじ
編集北陸最古の秘湯・粟津温泉を舞台に、芸者とあんまの職能を合わせ持つあんま芸者が、スケベな男たちを相手にお色気と㊙を武器にがっちり稼ぎまくる[10]。
キャスト
編集スタッフ
編集製作
編集企画
編集企画、及びタイトル命名は岡田茂東映京都撮影所長兼企画製作本部長[12][13][14]。東映ポルノのタイトルは本作も含め全て岡田の命名といわれる[12][13][14]。"くノ一もの"、"㊙もの"など、一連のエロものでヒットを飛ばした岡田が[15][16][17]、石井輝男を招聘して製作した『徳川女系図』に続き[18][19][20][21]、石井のためのエロ企画として用意したのが、大映が1963年から1964年に製作して人気を博した"温泉シリーズ"[22]をパクった"温泉芸者もの"であった[3][7][23][24][25]。"東映温泉芸者シリーズ"は、ハレンチ度も女優の悩殺度も大映版とは比較にならない程で[4][7][24]、当時の映画誌に「東映『温泉あんま芸者』のピンクなることの表面に押し立てること、大映の『温泉芸者』の頃とは考えられなかった内容で、時勢が大きく変わったことが感じられる」と評された[4]。これまでも成人指定を受けたメジャー作品はたくさんあったが、それらの性愛描写は間接的な表現が大半で[4]、女性の裸や濡れ場がたくさん出るということではなかった[4]。ピンク映画の専門館ではなく、全国数百館の大手映画会社の封切館で女性の裸が大量に露出するような映画が掛かった最初のケースで[4]、『徳川女系図』は大人番組の最中の公開で問題はなかったが、本作は1968年の夏興行でもあり、本作の後、怪談映画を挟んで上映されたのが、文部省選定だった『太陽の王子 ホルスの大冒険』や『ウルトラセブン』『魔法使いサリー』『ゲゲゲの鬼太郎』のラインアップだった東映まんがまつり(東映漫画オンパレード)で[4]、当時の封切館は次回予告も合わせた看板やポスター、暖簾等が掛けられていたから、これではピンク映画を見に行った者は白眼視されるし、劇場もご家族動員がやりにくくなるなど興行方法の見直し議論が初めて起きた[4]。
『徳川女系図』でフンドシ女優が話題を呼んだため、最初に岡田の付けたタイトルは『温泉ふんどし芸者』であったが[26]、映倫からクレームで[26]、『温泉あんま芸者』に変更した[6]。すると大映の斉藤米二郎プロデューサーが「ウチの『温泉芸者』と『温泉あんま』をミックスしただけじゃないか」とこれまたクレームを付けた[6]。温泉あんま芸者は今日失われた風俗とされるが[23]、1957年の売春防止法施行と1958年の赤線廃止で、職場を失った娼婦たちが全国各地の温泉場で芸者やマッサージ嬢に身をやつし客室に入り込み、自由恋愛という名目で正当化された脱法行為を行った娼婦のことで[3][23][27][28]、高度経済成長期に団体旅行がブームになり、男の遊び場として企業や町内会、商店街など、温泉観光地への男だけの団体旅行が盛んに実施され、宿泊地のニーズとして温泉あんまは増えていた[3][7][23]。
"不良性感度"を標榜する岡田の[29][30][31][32][33]、エロ映画への最初のアプローチは「東映任侠路線」第一作『人生劇場 飛車角』[34]とさほど時期が変わらない1963年11月公開の『五番町夕霧楼』であった[35]。以降エロ映画の製作を単発的に続け[35][36]、「東映好色新路線」としてエロ映画を大手映画会社で初めて路線化する方針を打ち出したのは1965年のことだった[37][38]。しかし役者に出演を嫌がられるなど思うように路線化は進まず[38]。1965年の段階で企画に挙げていた『大奥㊙物語』が1967年11月に公開され大ヒットしたため、ようやく路線化する態勢が出来た[16][39][40][41]。
演出
編集石井輝男は1965年に『網走番外地』の第一作を撮った後、東映の慰留に応じずフリーになっており[42][43][44]、以降東映とは本数契約だった[44]。このため当時の監督料は脚本・監督料込みで一本200万円だったとされる[45]。本作と同じ年に岡田が『不良番長』を始めようとした際に、監督にやはりフリーの井上梅次の招聘を決めていたら[46]、吉田達プロデューサーが「井上さんだと演出250万円、脚本150万円の計400万円とられますよ。本部長は2400万円で作れって言いますけど監督に400万円も取られたら出来ません。(東映)社員の野田幸男なら15万円で済みますよ」と進言し、岡田が「よし、じゃあ野田でいけ」と監督が野田に変更になったという笑い話があり[46][47]、石井の監督料200万円は当時としては高額のギャラだった[44]。当時、鶴田浩二で年間6本で2000万円[48]、高倉健がギャラ闘争で三年間無契約後の1967年秋に[48][49]、一本450万円とされる契約を勝ち取ったところだった[48][49][50]。
キャスティング
編集東映の専属女優は思ったように脱いでくれないため[19]、岡田はピンクプロダクションのヌード専門女優を大量に引き抜き[51][52][53]、1968年5月公開の『徳川女系図』に起用した[54][55][56]。当時映連が「日本映画の不振の原因はピンク映画が巷に溢れているからだ」と「ピンク映画一掃!」の旗印を掲げていた矢先に[51]、邦画五社の先鋒である東映が外注のピンク女優をトップスターから脇役まで引き抜いて裸にするというゲリラ戦を展開したため[51][56][57]、映連としても上げた拳のやり場に困り、ピンク業界はカンカンに怒った[51][56]。このような岡田の好き放題を大川博東映社長が何故咎められなかったのかというと、岡田が1964年2月に東映京都撮影所所長に復帰する際、大川から「京都がガタガタになりそうだからお前が京都に行ってくれないと東映そのものがおかしくなる」と言われ[58]、「それならすべて私に任せて下さい。荒治療しますけどいいですね」と大川から指揮権移譲の承認を取り付け[58]、京都撮影所所長に就任した経緯があり[58][59][60][61][62]、東映京都作品の企画の全ての決定権を持たせていたため大川も口を出せなかった[16][61][63]。とは言っても大川の顔を立てるため、岡田は本作からは自前(東映専属)のヌード女優を育成してエロ路線を充実させろと指示した[20]。岡田はずっと東映の専属女優を脱がそうと画策した人で[37][38][64]、本作で岡田の毒牙にかかったのが橘ますみであった[23]。橘は当時東映入社まだ一年余で[5]、岡田は清純派女優として売り出そうと自身の企画だったテレビドラマ『大奥』(フジテレビ/関西テレビ)に[65][66]いたいけなヒロイン・お楽の方に起用していた[23][67][68][69]。しかし『温泉あんま芸者』がキャスティングに難航したため[5]、小柄ながら胸の大きい橘に目を付け[5]、『大奥』出演でお茶の間の人気をさらっていた橘を第4回放送で降ろし、意図的に1ヵ月仕事を与えず干した[23]。橘の不安がピークに達した頃合いを見て「君の主役で映画を一本撮る。でも脱ぐ役だよ」と橘を口説き[23]、橘は一も二もなく承諾、今にいうMeToo案件により本作のヒロインに抜擢された[23][70]。橘の本作出演は「橘ますみもピンクで勝負」「清純ムードに決別」「お色気発散に意欲」などと宣伝された[70]。本作では唯一、バージンを守り通す役のためさほど脱がないで済み事なきを得たが[5]、石井作品2度目の起用だった1969年1月公開の『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』では、石井に言葉たくみに口説かれ[23][71]、初めてヌードになった[23][71][72]。橘は泣きべそをかき「でも若尾さんや南田さんも昔は性典映画に出ていたんだもの、私もがんばるわ!」と意地を張った[67]。"東映お色気路線のエース""東映ポルノ初期のエース"橘ますみはこうして誕生し[23][72][73]、以降、石井作品の常連女優の一人となって脱ぎまくり[72]、週刊誌のグラビアなどでもヌードがたくさん掲載され[23]、1969年の東映カレンダーの表紙を飾る人気女優になった[69][74][75]。母親は娘の女優業に終始猛反対で、本作撮影中の粟津温泉に「みっともない!ギャラぶんのお金はお母さんが払うからすぐ帰ってらっしゃい」と電話してきたという[72]。
吉田輝雄、三原葉子、高倉みゆきと新東宝組が演技陣の要でしめる[70]。三原は石井が新東宝時代に積極的に起用したグラマー女優[23]。
処女膜手術の好きなあんま芸者を演じる[76]賀川雪絵は日活の俳優だった西春彦の娘で[77]、関西芸能学院在学中から大映の端役で出演後[78]、本名の西尋子で[77][78]、『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』などに出演したが[77][79]、さっぱり売れず[77]。『徳川女系図』に同じテアトル・ド・ポッシュ所属の吉田輝雄が主役に抜擢されたことから[79]、バーターで賀川雪絵と改名して東映と専属契約を結び[78]、同作に出演した[79]。脱ぎっぷりのよさから石井に気に入られ[80]、本作も含め以降、石井作品の常連女優になった[77][79][81]。石井の現場はハードで、女優に対して厳しい演技指導をするためたいていの女優に逃げられ[78]、女優が不足し、石井と助監督の荒井美三雄の二人で京都の街に繰り出し修学旅行生までナンパしていたといわれ[78]、賀川のような常連女優は珍しかった[78]。石井演出について「頭の中でアイデアが膨らんで凄い才能。台本にないことをやらされるから最初は本番になるとビックリした。あの時代にめちゃくちゃショッキングだった」などと話している[78]。
三島ゆり子は東映の専属女優ながら1964年の『くノ一忍法』で中島貞夫が汗だくで「裸になってくれ」と口説き[82]、以降はお色気路線で豊満な肉体を都度都度披露した[83][84]。"スペシャルあんま芸者"を演じる應蘭芳は[76]、『11PM』(日本テレビ制作版)のアシスタントとして人気があった[23][85][86]。辰巳典子はピンク映画の人気女優。"ピンク映画の女王"内田高子は『徳川女系図』で「宣伝のためだけにキモノをムシリとられた。わたしの役柄の希望はチットモ聞いてきれない。ハダカはもうゴメンです」などと[87]、本作を蹴り、日活の『艶説 明治邪教伝』に出演した[88]。『徳川女系図』に続いて出演したピンク女優も本作で浴場で素っ裸の格闘をする見せ場のシーンには驚いて、その場面の出演を拒否する者も出た[87]。
内股のカニの入れ墨で男の股間を襲う秘技"カニバサミ"を駆使するあんま芸者役に難航していたところ[89][90]、石井自ら街へスカウトしたのが英美枝(はなぶさみえ)[5][90]。銀座を歩いていた英に「お嬢さん、私の映画で脱いでみる気はありませんか」と誘い「ええやってみます」と英は堂々とスカウトに応じた[5][90]。英は既にCMや映画の端役で少し出ていて素人ではなかったが、やや太めの身長157cm、B93cm、W65cm、H94cmで当時19歳[90]。「わたしは名もない役者ですから肉体で勝負します。からだだけはほかの女優さんには負けません。だから脱ぐんです」と話す度胸のよさだった[90]。撮影前にトルコ嬢を呼んで出演女優全員がマッサージの初歩のレッスンを受けた[91]。
撮影
編集『徳川女系図』で女優にフンドシをつけさせ相撲を取らせ世間を騒がせたため[76]、東映製作のそのエロ第二弾に撮影を打診された石川県粟津温泉では、ロケに協力するかどうか観光協会が総会を開く騒ぎになった[76]。年寄り連中は「エゲツなさ過ぎる。こんな映画を撮られては、温泉の逆宣伝にしかならない」「映画が上映されると作りものと現実を混同され、無理無体な注文をする客が出るのは目に見えている」などと猛反対した[76]。しかし若手旅館経営者たちは「所詮、ドラマはドラマ。温泉地にお色気はつきもの。このチャンスを逃すことはない」と反論し、表決の結果、14対2で反対派が敗れ、二週間以上のオールロケが実現した[28][70][76][92][93]。『徳川女系図』のヒット中にクランクインしたとされるため[70]、粟津温泉入りは1968年5月上旬ということになる。製作費も安上がりの上、スタッフ・キャストは至れり尽くせりで、東映スタッフはごきげんだったという[92][94]。乱痴気パーティの撮影にあたり、石井のアイデアで「エキストラとして出演して下さる方は、食事代はタダ、その上芸者のストリップも見られます」と宣伝を打ち、一般客を募集した[93]。すると地元のオジサンや観光客が150人集まり、素人が酔客になって芸者に扮した女優たちのオッパイを吸うわ、パンティに手を突っ込むわの大ハッスルで乱痴気撮影を終えた[93]。エロ映画は当時の映画界の流行ではあったが、メジャー映画会社はここまではやらなかったため、これを観たピンクプロダクション関係者が「ドギツイ。ボクらの映画と変わりないよ」と嘆いた[95]。
清水正二郎が『小説倶楽部』[94]、田中小実昌が『週刊大衆』に[11]それぞれ自身の本作撮影体験レポートを載せた[11][94]。清水は愛人を連れて行きつつ女優の一人を落としたと豪語[94]。田中は粟津温泉に到着するなり撮影が始まり、賀川雪絵を相手にマッサージシーンの撮影。賀川は身長170センチ近い当時としては珍しい大柄な女優で[11]、当時20歳。照明に取り囲まれ暑すぎたが半裸の若い女優に実際にエロマッサージを受け、極楽気分で、石井監督から「そろそろ、あやしげなことにかかって下さい」と声が飛んだ。「え?..あやしげなことって..どの程度ですか?」と石井に聞いたら「どの程度でもいいですよ。ご遠慮なく」といわれた。仕方なく(?)賀川にバッチリ抱きつき触り放題のキスのし放題。当然撮影は何度も繰り返されるから何度したか分からないほどキスをした。撮影が終わると賀川は陰でそっと唇を拭いていたという[11]。
宣伝
編集粟津温泉の大浴場に新聞・雑誌記者を集めて撮影会が行われ、記者の前で女優たちがヌードになり、お色気をフル活用した宣伝活動が行われた[23]。プレスのキャッチフレーズは「サービス満点…パンチ力絶大のピンク攻撃第二弾。ウルトラ・ボインからハレンチ・テクニック、温泉あんま芸者のビックリ、セックス作戦」で、三原葉子、三島ゆり子、高倉みゆき、賀川雪絵、應蘭芳と、錚々たるメンバーのピンク出演をアピールした[4]。
作品の評価
編集興行成績
編集一億円以上を挙げるヒット[96]。当時は1億円でもヒットだった[96]。
批評家によるレビュー
編集結城昌治は「とにかく呆れ、嘆き、憤慨した。ピンク女優に芸を求めての不満ではない。容易な製作態度に呆れたのだ。不見転芸者と芸者風を装ったあんま娼婦を軸に話が展開されるが、これといったストーリーもなく、これといった演出もない。ただバカバカしく、下劣なクスグリが一部の客を笑わせたほかは、ユーモアのかけらもない。女優の裸を見せればいいだろうという魂胆かどうか、客を舐めているとしか思えない。『徳川女系図』は当たったそうだが、こんなもので商売が続くと思ったら大間違いだ。これが場末のストリップなら「もっとマジメにやれ!」と野次り倒されるところだ。わたしは映画が好きだから、こんなものを作ってもらいたくない。天下の東映が、かつての新東宝の呼び物を俳優付きで移籍させたような映画を作るなんて、それだけでも侘しい。私が見たのは封切翌日のウィークデーの昼間だったが、客席の入りは四分の三と映画不振の近頃では珍しくよかった。しかし数字に現れぬ信用の失墜ということを併せて考えた場合、そのマイナスは今後にわたって響くという計算をしなければなるまい」などと酷評した[97]。
影響
編集1968年は東映内のゴタゴタが表面化した年で[98]、本作製作中と見られる1968年5月17日付けで岡田茂は製作の最高責任者・企画製作本部長に就任し[98][99][100][101]、公開後の1968年8月31日付けで東映映画全ての製作・配給・興行までを統轄する映画本部長に就任した[98][100][102]。この大幅な昇進人事は、岡田が東映を辞めて実家の酒屋を継ぐ[103]、映画会社やテレビ局、電通、博報堂などが岡田の引き抜きを狙っている[103]、岡田の兄貴分五島昇が岡田のために映画会社を作って独立させる等の噂が流れたためで[103]、大川博社長は岡田を東映に残すには一映画会社の社長の立場に匹敵する大きな権限を与えるしかなかった[100][103]。岡田に自分の思い通りの映画作りが出来る状況が生まれ、ここからエロと暴力が一層強化されることになった[40][57][99]。次いで1971年1月に映画本部長兼テレビ本部長に就任し[98][104][105]、映画、テレビ、動画、教育映画と東映の映像製作部門の全権を掌握[104][105]。このポストのまま社長に就任したため、東映では数十年もの間、岡田好みの映像作品しか製作されない状況が生まれた[106][107]。"温泉芸者もの"も岡田が気に入ったこともあり路線化されている[3][23][94][108][109]。
同時上映
編集『帰って来た極道』
脚注
編集- ^ “温泉あんま芸者”. 日本映画製作者連盟. 2019年10月20日閲覧。
- ^ “温泉あんま芸者”. 映倫. 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e セクシーダイナマイト 1997, pp. 232–233.
- ^ a b c d e f g h i “メージャーも積極的になった ピンク映画四つ相撲 その上映方法に一つのプランを/一般成指上映興行の一考察”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 1. (1968年7月6日)
- ^ a b c d e f g 「ポスト 日本映画 東映セックス路線2人の新人 清純の橘ますみ 度胸の英美枝」『週刊明星』1968年6月9日号、集英社、118頁。
- ^ a b c 「コーナー CORNER CORNER 落ちに落ちた"路線"」『アサヒ芸能』1968年5月26日号、徳間書店、88頁。
- ^ a b c d 「秘宝よいこの夏休み課外授業 温泉芸者って何だ!? 温泉芸者、その風俗的研究 文・藤木TDC/日本映画における温泉芸者映画の歴史 文・鈴木義昭/みみずとスッポン。東映セックスコメディの到達点 文・磯田勉」『映画秘宝』2009年10月号、洋泉社、70-71、74頁。
- ^ 東映ビデオ | 温泉あんま芸者、東映ビデオオンラインショッ プ&ポイントクラブ / 温泉あんま芸者『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』ぴあ、1998年、163頁。ISBN 4892159042。
- ^ セクシー・ダイナマイト 1997, pp. 232–233.
- ^ 「内外映画封切興信録 『温泉あんま芸者』」『映画時報』1968年8月号、映画時報社、39頁。
- ^ a b c d e f 田中小実昌「日本バタフライ考(25) 『粟津温泉の女たち』」『週刊大衆』1968年6月27日号、双葉社、48-49頁。
- ^ a b ピンキーバイオレンス 1999, pp. 36–37.
- ^ a b アウトロー女優 2017, p. 136.
- ^ a b 脇役名画館 2005, pp. 205–231.
- ^ “'69のホープたち 映画巻き返しの"先兵" 各社『大作』で売り出す”. 東京タイムズ (東京タイムズ社): p. 10. (1969年1月26日)「まじめにやるくノ一 味しめた東映'65年の忍法商法」『週刊サンケイ』1965年1月18日号、産業経済新聞社、55頁。「スクリーン・ステージ ピンク映画のタイトル盗用騒動」『週刊朝日』1968年6月4日号、朝日新聞社、129頁。中島貞夫『遊撃の美学 映画監督中島貞夫 (上)』ワイズ出版〈ワイズ出版映画文庫(9)〉、2015年、180-181頁。ISBN 9784898302835。
- ^ a b c あかんやつら 2013, p. 261-263.
- ^ 悪趣味邦画 1995, pp. 98-99、276-280.
- ^ 映画魂 1992, p. 184.
- ^ a b 松島利行 (1992年4月22日). “〔用意、スタート〕 戦後映画史・外伝 風雲映画城/75 ピンク路線に参入”. 毎日新聞夕刊 (毎日新聞社): p. 5
- ^ a b 「さらば! 我らが天才監督 石井輝男の世界 異常性愛路線とは」『映画秘宝』2005年11月号、洋泉社、33、38頁。
- ^ 〔カルチャー〕 アクションとカルト 二つの顔…石井輝男(Internet Archive)、新文芸坐石井輝男 映画チラシ
- ^ 温泉芸者:角川映画
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q アウトロー女優 2017, pp. 33–35.
- ^ a b 猛爆撃 1997, pp. 232-233、237.
- ^ 磯田勉「追悼上映がシネマヴェーラ渋谷で開催 天尾完次を偲ぶ」『映画秘宝』2013年12月号、洋泉社、25頁。
- ^ a b 岡田茂自伝 2004, p. 163.
- ^ 第26回国会 社会労働委員会 第25号
- ^ a b 石井輝男 怒涛の30本勝負!! 渋谷文化プロジェクト
- ^ 日本映画の現在 1988, pp. 33–36.
- ^ 日本映画発達史 1968, p. 265.
- ^ 東映の軌跡 2016, pp. 564–565.
- ^ テレビ成長期の日本映画 2018, pp. 134–153.
- ^ 大高宏雄の興行戦線異状なし Vol.29、孤狼の血 : 映画評論・批評 - 映画.com、泊 懋氏(元東映アニメーション会長)が語る映画の時代とテレビの時代、スケバン、ハレンチ!「東映不良性感度映画」を特集-映画秘宝 - シネマトゥデイ勝田健「【ざっくばらん対談】ー異色経済人登場 映画界のあばれん坊 岡田茂(東映社長)」『創』1977年5月号、創出版、196頁。「東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』2011年7月号、洋泉社、52頁。孤狼の血 : 映画評論・批評 - 映画.com楊紅雲「任侠映画路線における東映の成功 : テレビに対抗した映画製作 (1963-1972年) を中心に」『多元文化』第4号、名古屋大学国際言語文化研究科国際多元文化専攻、2004年3月、201頁、doi:10.18999/muls.4.191、ISSN 13463462、NAID 120000974864、2021年12月1日閲覧。
- ^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕(Internet Archive)東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI、コラム|東映京撮・盟友対談(2)“岡田茂(映画界の巨人)インタビュー 映画界へ 聞き手・福田和也” (PDF). メッセージ.jp. BSフジ (2005年5月15日). 2019年10月20日閲覧。(archive)金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4822201589。(NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した(Internet Archive)
- ^ a b アウトロー女優 2017, pp. 14–30.
- ^ 日本映画発達史 1968, pp. 251–267.
- ^ a b 「タウン 女優を悩ます東映"好色"新路線」『週刊新潮』1965年2月11日号、新潮社、15頁。「製作 各社が苦労する新年度路線の確立 異色的な東映の『好色路線』」『映画時報』1966年1月号、映画時報社、22頁。
- ^ a b c 「観客の目 好色路線への両ヨシコの態度」『週刊文春』1965年12月27日号、文藝春秋、20頁。
- ^ 悔いなき 2001, pp. 153–156.
- ^ a b 任侠映画伝 1999, pp. 227–228.
- ^ “ウラ話うら話 東映助監督と会社側" エログロ"めぐり内紛”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社): p. 15. (1969年4月30日)
- ^ “フリーで気を吐く監督たち 一年で六本もこなす ー大モテの井上梅次や石井輝男ー "芸術派"も地道に健闘”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 8. (1966年2月21日)
- ^ 「石井ハレンチ監督の意外な意気軒昂 助監督の造反にもゆるがぬ東映性愛路線」『週刊朝日』1969年5月2日号、朝日新聞社、152-154頁。
- ^ a b c 「東映助監督会がエロ・パージの声明 攻撃目標は石井監督作品」『週刊明星』1969年5月4日号、集英社、146-147頁。
- ^ “ウの目タカの目”, 週刊文春 (文藝春秋) (1968年2月17日号): 20-21
- ^ a b 杉作J太郎・植地毅「吉田達インタビュー」『不良番長浪漫アルバム』徳間書店、1999年、247頁。ISBN 9784198643546。
- ^ 内藤誠『監督ばか』彩流社、2014年、68-69頁。ISBN 9784779170164。
- ^ a b c 「タイム 映画&演劇 『しのぎをけずる"三大親分衆" "東映やくざ路線"の鶴田、高倉、安藤のギャラは?』」『週刊平凡』1967年10月12日号、平凡出版、49頁。「タイム 映画&演劇 『しのぎをけずる"三大親分衆" "東映やくざ路線"の鶴田、高倉、安藤のギャラは?』」『週刊平凡』1967年10月12日号、平凡出版、49頁。
- ^ a b 「げいのう ルック 『高倉健を刺激した安藤昇の成功 自社スターをハッスルさせたうまい商法』」『週刊現代』1967年3月23日号、講談社、26頁。
- ^ 「芸能人事録」『週刊サンケイ』1967年5月8日号、産業経済新聞社、109頁。
- ^ a b c d ポルノ雑学 1983, pp. 182–186.
- ^ “観客の目 底辺女優のライバル物語”, 週刊文春 (文藝春秋) (1968年2月17日号): 20-21
- ^ 「遂に解禁!『異常性愛記録 ハレンチ』 日本のセクスプロイテーション映画史における石井輝男の異常性愛路線が占める位置 文・藤木TDC」『映画秘宝』2006年9月号、洋泉社、77頁。
- ^ ピンク映画 1969, pp. 150–151.
- ^ “東映『徳川女系図』にピンク界のスター女優総出演”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 5. (1968年2月17日)「LOOK げいのう ピンク映画なみの東映路線」『週刊現代』1968年2月29日号、講談社、33頁。
- ^ a b c 児井英生『伝・日本映画の黄金時代』文藝春秋、1989年、313頁。ISBN 4163430105。
- ^ a b 風雲映画城 1992, pp. 144–145.
- ^ a b c 「戦後50年 東映 岡田茂会長インタビュー『 おもしろおかしく生きて勲二瑞宝』」『AVジャーナル』1995年12月号、文化通信社、27頁。
- ^ 岡田茂自伝 2004, pp. 164–165.
- ^ 「東映事業中心の多角経営を促進 東映、時代に則した新機構人事」『映画時報』1964年3月号、映画時報社、24-26頁。「座談会 日本映画界はどう進むべきか? ―現代の経営路線に悩む各社―」『映画時報』1964年5月号、映画時報社、20-21頁。井沢淳・瓜生忠夫・大黒東洋士・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、16頁。
- ^ a b 渡邊達人『私の東映30年』1991年、139-147頁。
- ^ “【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集. (1995年3月18日)
- ^ “【戦後史開封】(290) チャンバラ映画(5) 時代劇撤退次々去った東映スター”. 産業経済新聞 (産業経済新聞社): p. 朝刊特集. (1995年3月18日)「お楽しみ案内 映画・舞台 『その'退屈男'罷りならぬ 映画・歌舞伎先輩スターからヒジ鉄を食った大川橋蔵の立ち場』」『週刊サンケイ』1965年2月22日号、産業経済新聞社、54–55頁。「座談会 日本映画界はどう進むべきか? ―現代の経営路線に悩む各社―」『映画時報』1964年5月号、映画時報社、20-21頁。井沢淳・瓜生忠夫・大黒東洋士・高橋英一・大橋重勇・嶋地孝麿「〈特別座談会〉 日本映画製作批判 ーこれからの企画製作はいかに進めるべきか」『キネマ旬報』1965年7月上旬号、キネマ旬報社、16頁。池上金男・笠原和夫・下菊坂菊馬・佐治乾・野上竜雄・宮川一郎・国弘威雄「《座談会》若い世代の発言その1・東映へ直言する」『シナリオ』1966年5月号、日本シナリオ作家協会、30頁。
- ^ アウトロー女優 2017, pp. 14–58.
- ^ 悔いなき 2001, p. 148.
- ^ 「欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代 これが映画だ、カツドウだ!岡田茂が放った七本のシャシン 『大奥㊙物語』 文・野村正昭」『キネマ旬報』2011年7月上旬号、キネマ旬報社、44-45頁。
- ^ a b 「ミニ情報! 橘ますみ」『月刊明星』1979年5月13日号、集英社、215頁。
- ^ 「テレビ 関西の力作が関東に挑戦 四月改編の各局ドラマ作品から」『週刊読売』1968年3月8日号、読売新聞社、128-129頁。
- ^ a b 「トピック・コーナー『ハッスルしてます』」『週刊新潮』1968年9月号、国際情報社、67–68頁。
- ^ a b c d e 映画魂 1992, pp. 186-187、334.
- ^ a b 「〈内幕レポート〉 脱がされたタレント50人のそれから だれもが見たがる美女の裸、その損得勘定」『アサヒ芸能』1969年9月4日号、徳間書店、118頁。
- ^ a b c d 「《この女性(ひと)の生き方》 いまや世をあげてのポルノ・ブーム。だが、その陰で、ひっそりと姿を消していった"ハダカ"女優がいた。 『70万円の人気スターの座を捨て月給4万円のOLに… 東映お色気女優のエース なぜ橘ますみ(25歳)は突然女優を廃業したのか』」『週刊平凡』1971年10月4日号、平凡出版、144–145頁。
- ^ “裸の季節(4) 橘ますみ(東映) "水着が窮屈なのね" 苦しそうな自慢のバスト”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 12. (1969年5月19日)
- ^ 東映異常性愛路線のミューズ 橘ますみ伝説/ラピュタ阿佐ケ谷
- ^ 悪趣味邦画 1995, pp. 276–279.
- ^ a b c d e f 「タウン 表決騒ぎになった東映ピンク映画ロケ」『週刊新潮』1968年6月22日号、新潮社、15頁。
- ^ a b c d e セクシーダイナマイト 1997, pp. 258–259.
- ^ a b c d e f g 「さらば! 我らが天才監督 石井輝男の世界 賀川ゆき絵インタビュー」『映画秘宝』2005年11月号、洋泉社、36–37頁。
- ^ a b c d 「下半身女優の横綱候補」『アサヒ芸能』1968年6月9日号、徳間書店、88頁。
- ^ 「赤ふんどしのドッキン女優 19歳の賀川雪絵」『週刊明星』1968年3月17日号、集英社、88頁。
- ^ “裸の季節(6) 賀川雪絵(東映) 豊かな体、ビキニに包んで…"こぼれる"色気”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 12. (1969年5月21日)
- ^ 『私と東映』 x 中島貞夫監督 (第2回 / 全5回)、岡田茂追悼上映『あゝ同期の桜』中島貞夫トークショー(第1回 / 全3回)
- ^ 俳優全集 1980, p. 625.
- ^ 悪趣味邦画 1995, pp. 240–241.
- ^ 「LOOK げいのう 相手男優を興奮させた應蘭芳 趣味と実益?をかねたベッド演技」『週刊現代』1968年4月18日号、講談社、18頁。
- ^ セクシーダイナマイト 1997, pp. 256–257.
- ^ a b 「観客の目 底辺女優のライバル物語」『週刊文春』1968年5月27日、文藝春秋、20-21頁。
- ^ 「タウン 日活の極秘映画の正体」『週刊新潮』1968年6月29日号、新潮社、15頁。
- ^ モルモット吉田「秘宝よいこの夏休み課外授業 温泉芸者って何だ!? 温泉芸者シリーズ、この秘技を見よ!」『映画秘宝』2009年10月号、洋泉社、71頁。
- ^ a b c d e 「グラビア 英美枝の個性(エロチシズム) -『温泉あんま芸者』に体当たりする19歳」『アサヒ芸能』1968年6月19日号、徳間書店、119-122頁。
- ^ 「〔ウワサの真相の間 スクリーン篇〕秋に結論が出る司葉子の...」『週刊大衆』1968年6月20日号、双葉社、85頁。
- ^ a b 山城新伍『映画通のタネ本 語り明かしたかった37項』青春出版社、1979年、82-83頁。
- ^ a b c 「芸能ゴシップ110番 『観光客が喜んで飛び入り出演したわけ』」『週刊平凡』1968年6月27日号、平凡出版、64頁。
- ^ a b c d e アナーキー 2012, p. 89.
- ^ 「ワイドスクープ 今週のショッキング・フォト」『週刊平凡』1968年6月27日号、平凡出版、63頁。
- ^ a b “これがドル箱路線とは? ハレンチまかり通る 安い製作費で大当たり ドギツさ押し売り”. 東京タイムズ (東京タイムズ社): p. 7. (1969年2月18日)
- ^ 結城昌治「おれは野次馬 『映画ファンを甘く見るな』」『アサヒ芸能』1968年7月21日号、徳間書店、14頁。
- ^ a b c d 土子猛編「総説 業界動向 概観」『映画年鑑 1969版』1969年1月1日発行、時事通信社、107-116頁。
- ^ a b 映画界のドン 2012, pp. 326–334.
- ^ a b c 「日本映画の現勢Ⅴ 『特集 日本映画の首脳たち 五社首脳とその人脈 異才の経営者 大川博』 文・今村金衛」『キネマ旬報』1968年12月上旬号、キネマ旬報社、119-121頁。
- ^ 「大川社長、労使協調の精神を説く "東映経営の姿は正しい"を強調」『映画時報』1968年6月号、映画時報社、26頁。「映画界の動き東映首脳部、大幅な人事異動」『キネマ旬報』1968年6月下旬号、キネマ旬報社、92頁。井沢淳・高橋英一・鳥畑圭作・キネマ旬報編集部「TOPIC JOURNAL 責任重大の松竹三島新企画部長」『キネマ旬報』1968年12月下旬号、キネマ旬報社、26-27頁。
- ^ “東映画期的な機構大改革映画・テレビ主体二軸に織込む”. 週刊映画ニュース (全国映画館新聞社): p. 5. (1968年9月7日)
- ^ a b c d 「日本映画界は何処へ行く? 新路線の開発に奔走中 きびしい経営で配当を維持 一歩後退、二歩前進の東映」『映画時報』1968年8月号、映画時報社、12-15頁。
- ^ a b 日本の映画人 2007, p. 122.
- ^ a b 春日太一「特別企画 『現代の軍師』16人の素顔 知られざるエピソードでつづる伝説の男たち 翁長孝雄 『映画界のドン・岡田茂』を支え続けた現場力」『文藝春秋special「日本の軍師100人」』2013年季刊冬号 Vol.26、文藝春秋、104 - 107頁。
- ^ 映画界のドン 2012, pp. 43–51.
- ^ 香西靖仁「日活の会社更生法申請の事実に迫る」『映画撮影』1993年8月号 No.202、日本映画撮影監督協会、30頁。岡本明久・星野行彦・富田泰和「日本映画の現状をどう打開するか(5) 東映の労働運動は岡田社長ワンマン体制を打破し企画と経営の民主化をかちとることが目標です」『シネ・フロント』1987年4月号、シネ・フロント社、52-57頁。「〔財界) 今月の人脈・人事研究 『岡田東映会長Jr.人事異動で松竹連想の不謹慎 映画営業担当就任で吉凶どちらかはなべて実績 後継への一里塚』」『月刊 財界人』1998年10月号、政経通信社、37頁。西川昭幸『日本映画一〇〇年史 そうだったのか!あの時、あの映画 明治・大正・昭和編』ごま書房新社、2012年、403頁。ISBN 9784341132507。品川隆二、円尾敏郎『品川隆二と近衛十四郎、近衛十四郎と品川隆二』ワイズ出版、2007年、150頁。ISBN 9784898302064。
- ^ あかんやつら 2013, p. 266-269.
- ^ 「鈴木則文 『恐怖女子高校』『温泉芸者』『関東テキヤ一家』を語る...みみずとスッポン。東映セックスコメディの到達点 温泉芸者って何だ!? 文・磯田勉」『映画秘宝』2009年10月号、洋泉社、74頁。“温泉芸者シリーズ”. 日本映画製作者連盟. 2019年10月20日閲覧。福永邦昭「【今だから明かす あの映画のウラ舞台】女優編(下) 池玲子の「肉弾戦」で東映ポルノ女優宣伝 三越屋上でセミヌード撮影会 (1/2ページ)」『夕刊フジ』、産業経済新聞社、2016年10月28日、 オリジナルの2017年12月23日時点におけるアーカイブ、2019年10月20日閲覧。
参考文献
編集- 田中純一郎『日本映画発達史Ⅳ』中央公論社、1968年。
- 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、1980年。
- 村井實『ポルノ映画おもしろ雑学読本』サンデー社、1983年。
- 緑川亨『日本映画の現在 〈講座日本映画7〉』岩波書店、1988年。ISBN 4000102575。
- 石井輝男、福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年。ISBN 4948735086。
- 松島利行『風雲映画城』講談社、1992年。ISBN 4062062267。
- 『悪趣味邦画劇場〈映画秘宝2〉』洋泉社、1995年。ISBN 9784896911701。
- 『セクシー・ダイナマイト猛爆撃』洋泉社、1997年。ISBN 4896912586。
- 俊藤浩滋、山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年。ISBN 4062095947。
- 杉作J太郎、植地毅『東映ピンキー・バイオレンス浪漫アルバム』徳間書店、1999年。ISBN 4198610169。
- 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年。ISBN 4879320161。
- 岡田茂『波瀾万丈の映画人生 岡田茂自伝』角川書店、2004年。ISBN 4048838717。
- 鹿島茂『甦る昭和脇役名画館』講談社、2005年。ISBN 4062131374。
- 佐藤忠男 編『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年。ISBN 9784816920356。
- 『鮮烈!アナーキー日本映画史 1959-1979』洋泉社〈洋泉社MOOK〉、2012年。ISBN 4862489184。
- 文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年。ISBN 9784636885194。
- 春日太一『あかんやつら 東映京都撮影所血風録』文藝春秋、2013年。ISBN 9784163768106。
- 東映株式会社総務部社史編纂 編『東映の軌跡』東映株式会社、2016年。
- 北浦寛之『テレビ成長期の日本映画』名古屋大学出版会、2018年。ISBN 9784815809058。
- 藤木TDC『アウトロー女優の挽歌 スケバン映画とその時代』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2018年。ISBN 9784800315748。