カトリック浦上教会

長崎市の教会
浦上天主堂から転送)

カトリック浦上教会(カトリックうらかみきょうかい)は、長崎県長崎市にあるキリスト教カトリック)の教会およびその聖堂である。聖堂は、旧称の浦上天主堂(うらかみてんしゅどう)の名で一般的に知られており、長崎市の観光名所のひとつにもなっている。

浦上天主堂
カトリック浦上教会
地図
北緯32度46分34.16秒 東経129度52分6.19秒 / 北緯32.7761556度 東経129.8683861度 / 32.7761556; 129.8683861
所在地 長崎県長崎市本尾町1-79[1]
日本の旗 日本
教派 カトリック
ウェブサイト 浦上天主堂
歴史
創設日 1879年 (1879)
守護聖人 無原罪の聖母
管轄
教区 カトリック長崎大司教区
教会管区 カトリック長崎教会管区
聖職者
大主教
(大司教)
ペトロ中村倫明
主任司祭 使徒ヨハネ山村憲一
副主任司祭 パウロ葛島輝義(協力司祭)
使徒ヨハネ中野健一郎
パドアのアントニオ西田祐尚
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カトリック浦上教会の位置(日本内)
カトリック浦上教会
カトリック浦上教会

1945年昭和20年)に長崎への原爆投下によって破壊されたが、1959年(昭和34年)に再建された。1962年(昭和37年)以降、カトリック長崎大司教区司教座聖堂となっており、所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会である。

教会の保護者

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概要

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原爆投下前の浦上天主堂

浦上は長崎の北に位置する農村であり、キリスト教の日本伝来以来カトリック信者の多い土地であった。そのため江戸時代における異教禁制による隠れキリシタンの摘発も数回なされた土地であった(浦上崩れ)。

鎖国解消に伴う長崎開港で、欧米人長崎港の南の東山手南山手に居住区を作り、その一角に1865年元治2年)に大浦天主堂が建てられた。それを知った浦上の住民は大浦に赴任した司祭ベルナール・プティジャン神父に密会して信仰を告白し、それがきっかけとなって社会へのカトリック信仰の顕在化が行われた。しかし明治政府も当初は江戸幕府と同様にキリスト教禁制を維持し、欧米政府からの反対を押し切って弾圧に踏み切り(浦上四番崩れ)、浦上の住民は各地に配流された。禁制解消後、半分近くまで減った信者が浦上の地へ戻り、1879年明治12年)に小聖堂を築いたのが浦上教会の発端であった。その後、大浦天主堂から専任の神父が来て、翌年の1880年(明治13年)に浦上村の庄屋の跡地を買い取り、現在の地に移転した。

  • 1879年(明治12年) - 浦上に小聖堂を建設。
  • 1880年(明治13年) - 旧浦上村庄屋、高谷邸屋敷跡地に仮会堂を建設。
  • 1895年(明治28年) 2月 - 大聖堂起工式を挙行、建設を開始。フランス人宣教師フレノーが設計計画を進める。
    • これは、大浦天主堂にも負けない東洋一の聖堂を目指して建設されたもので、完成までに19年の年月を要した[注 1]
  • 1911年(明治44年) - フレノー師が亡くなり、ラゲ師が代わって工事を進める。
  • 1914年大正3年) 3月17日 - 浦上天主堂が完成し、献堂式を挙行。煉瓦瓦葺357坪。
    • この日は、大浦天主堂での信仰告白からちょうど49年後にあたる「信徒発見の日」であった。
  • 1925年(大正14年) 5月 - 正面の高塔ドームまでの工事が完成。請負は鉄川与助によるもの。
  • 1945年(昭和20年)
    • 8月9日 - 長崎への原爆投下により、爆心地から至近距離に在った浦上天主堂はほぼ原形を留めぬまでに破壊。投下当時、8月15日聖母被昇天の祝日を間近に控えて、ゆるしの秘跡告解)が行われていたため多数の信徒が天主堂に来ていたが、原爆による熱線や、崩れてきた瓦礫の下敷きとなり、主任司祭・ラファエル西田三郎、助任司祭・シモン玉屋房吉を始めとする、天主堂にいた信徒の全員が死亡。
      • 後に浦上を訪れた俳人水原秋桜子は、被爆した天主堂の惨状を見て『麦秋の 中なるが悲し 聖廃墟』と詠んでいる。
    • 11月23日 - 浦上のカトリック信徒約300名が、空虚と化した浦上天主堂わきの広場で、浦上信徒の原爆犠牲者合同慰霊祭を挙行。(原爆犠牲者慰霊の始まり)
  • 1946年(昭和21年) - 被爆した天主堂は瓦礫を撤去し整備されたが、一部外壁の廃墟などは原爆資料保存委員会等の要請で被爆当時のまま仮保存。
  • 1958年(昭和33年)
    • 2月18日 - 長崎市議会臨時会、岩口夏夫ら15議員提出の元浦上天主堂の原爆資料保存に関する決議案を可決。
      • 決議の内容 - 「元浦上天主堂は、今次大戦による原爆資料として貴重なることは周知の事実であるが、これが存置について長崎市議会は重大な関心を持つものである。よって残虚保存対策について更に努力を重ね善処されんことを要望する。」
    • 2月26日 - 市議会の議決に基づき、長崎市長・田川務がカトリック長崎司教山口愛次郎と会見し、原爆により空虚と化した浦上天主堂の遺跡を現地に保存するよう要請。
    • 3月14日 - 浦上天主堂再建のため、廃墟の取り壊しが始まる。(原爆遺構の撤去に至った背景については後述
    • 3月17日 - 長崎市議会全員協議会、対策を協議し、廃墟全てを移築することは技術的・資金面から困難なため、一部を移築することに決定。移築場所・移築費用に関しては理事者に一任することとし、浦上天主堂原爆廃墟保存委員会の解散を決定。
    • 7月11日 - 浦上天主堂の廃墟の一部を平和公園内に移設し、被爆遺構として保存。高さ13m、幅3mの側壁が復元。
  • 1959年(昭和34年) 11月1日 - 再建された浦上教会が、元の場所に旧天主堂の外観を模して完成。
 
再建後の浦上教会
(1964年撮影)

原爆遺構の保存問題

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被爆した天主堂遺構の保存については、被爆直後の1945年10月に長崎医科大名誉教授で長崎市議会議員でもあった國友鼎が、市議会にて「(略)人類の責務において我等はこの被害のあとを詳細に記録せねばならぬのだ…」と保存を訴えた[2]。1949年(昭和24年)4月には「長崎市原爆保存委員会」が発足している[3]

1955年(昭和30年)5月、前年に発生した第五福竜丸事件の影響により日本各地で原水爆禁止運動が盛んになると共に反米感情が高まる中、カトリック長崎司教山口愛次郎は天主堂再建の資金援助を求めて渡米したが、米国側から資金援助の条件として天主堂遺構の撤去を求められたという[2]。ちょうど同じ頃、長崎市は米国ミネソタ州セントポール市との間で日米間の都市としては初めてとなる姉妹都市提携を締結[3]。当時長崎市長で天主堂遺構の保存に前向きであった田川務は、締結の翌年1956年(昭和31年)に米国を訪問したが、帰国後は保存に否定的な立場となるなど態度を一変させている[3]。1958年(昭和33年)の市議会では「原爆の必要性の可否について国際世論は二分されており、天主堂の廃墟が平和を守る唯一不可欠のものとは思えない。多額の市費を投じてまで残すつもりはない」と答弁し、議会決定に反して撤去を決定した。

浦上小教区の信徒で編成された「浦上天主堂再建委員会」は、信徒からの浄財及び寄付金による現地での再建計画を明らかにする。その動きを覚知した原爆資料保存委員会は、1958年(昭和33年)に「旧天主堂は貴重な被爆資料である故に遺構を保存したいので、再建には代替地を準備する」と提案した。しかし山口愛次郎はこれに対し、「天主堂の立地は、キリスト教迫害時代に信徒たちが踏み絵を強いられた庄屋屋敷跡であり、その土地を明治時代に労苦を重ねて入手したという歴史的な背景があり、保存委員会の意向は重々理解できるが、移転は信仰上到底受け入れることはできない」という意思を決定した(浦上教会公式サイトにも同様の経過が記載されている)。

キリシタン迫害に耐え抜き、悲願として浦上天主堂を建設した原爆被害当事者である浦上教会と、結果的にアメリカへの配慮を優先した田川市長の意向が共に再建を選択したため、旧天主堂の廃墟は撤去されることになった。現在、浦上教会信徒会館2階には、再建時に発掘・収集された被爆物(溶けた聖母像や聖杯ロザリオなど)を展示する資料室を併設しており、自由に見学することができる。

一部の遺構は保存されたとはいえ、広島県広島市の「原爆ドーム」(旧広島県産業奨励館)のように爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えられる遺物を残せなかったこと、また原爆ドームが史跡ユネスコ世界遺産に登録され、有名な被爆遺構として見学に訪れる観光客が増えていることから、残されていれば原爆ドームと同じく世界文化遺産になった可能性が高い被爆遺構が取り壊されたことを惜しむ声も未だに多い[4]

なお、2018年6月30日には世界文化遺産として「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録され、大浦天主堂などが認定されたが、再建された浦上天主堂はこれに含まれていない。

残存する原爆遺構

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被爆マリア像

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1929年(昭和4年)、聖堂に取り付けられた祭壇には木製の聖母マリア像が装飾されていた。

1945年の原爆投下により天主堂は倒壊したが、終戦後にマリア像の頭部が浦上出身の野口嘉右衛門神父(厳律シトー会)によって瓦礫の中から発見された。その後、トラピスト修道院や純心女子短期大学(現:長崎純心大学)教授・片岡弥吉によって保管されていたが、1990年(平成2年)にマリア像は浦上天主堂に返還された。バチカンには1985年(昭和60年)と2010年(平成22年)に訪れており、2回目の訪問の際にはローマ教皇ベネディクト16世に祝福を受けている。また、2005年8月9日より一般公開されている[5]

現在ではこの聖母マリア像を世界遺産に登録するための運動も行われている[6][7]

ちなみにこの像のモデルはムリーリョの『無原罪の御宿り』とされている。

天主堂の鐘楼

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落下した鐘楼

「アンジェラスの鐘」とも呼ばれる。原爆によって吹き飛ばされた天主堂の鐘楼の一部が、天主堂の北方約30mの地点に落下したものが現在でも現地で保存されている。被爆当時の位置は小川の中であったが、現在は川を整備して流れをずらすことで陸地に保存されている。被爆時のままに保存されている旧天主堂本体唯一の遺構であり、長崎市が定めた「被爆建造物等ランク付け」の最上位であるAランクとして分類されている[8]

馬利亜十五玄義図

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日本画の材料を用いながら西洋画の技法でイエス・キリストや聖母マリアの生涯が描かれた初期洋風画で、縦64センチ、横54センチの絵画作品。1945年に原爆で焼失したが、2011年ガラス乾板の一部が発見された[9]

拷問石と寒ざらしのツル

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境内の一角には、浦上四番崩れの際に山口県萩市に配流された信徒らが正座させられて棄教を迫られた「拷問石」が置かれている。花崗岩の庭の飛び石で、十字架が刻まれている。拷問石の上には太めの茎で編んだ葦簀(よしず)が敷かれ、その上に信徒が座らせられて拷問、説諭を受けた。

その中でも苛烈を極めたのが22歳の女性、岩永ツルへの拷問であった。彼女は腰巻き1枚の裸にされ、冬の寒い風の吹く中、震えながら石の上に正座させられた。夜になると裸のまま牢に帰され、昼にはまた石の上に正座させられた。一週間目には身体が埋もれるほどの大雪となったが雪の中に晒され続け、18日目には雪の中に倒れた。それでも棄教しなかったため、役人は改宗を諦めた。彼女は、1873年(明治6年)に浦上に帰った後、1925年(大正14年)12月に浦上の十字会(現:お告げのマリア修道会)で亡くなるまで、生涯を伝道に捧げた。

拷問石は牢番長だった寺本源七が供養のため自宅に持ち帰り、その子孫が保管していたが、1990年にカトリック萩教会に譲渡された。その後、「旅」(浦上四番崩れによる配流)を物語る遺品として譲渡を打診した当教会に寄贈され、2008年11月23日に石と案内板の除幕式が行われた。除幕式では、翌日のペトロ岐部と187殉教者列福式に出席するために長崎を訪れていたローマ教皇代理で前列聖省長官のジョゼ・サライバ・マルティンス英語版イタリア語版ラテン語版枢機卿によって石が祝福された。

ギャラリー

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所在地

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〒852-8112 長崎県長崎市本尾町1-79[1]

交通アクセス

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周辺

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脚注

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注釈

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  1. ^ 日露戦争で工事が一時中断した。

出典

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参考文献

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  • 高瀬毅『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』(平凡社,2009年)
  • 写真:高原至、文:横手一彦、英文:ブライアン・バークガフニ『長崎 旧浦上天主堂1945-58―失われた被爆遺産』(岩波書店,2010年)
  • 「原爆と防空壕」刊行委員会『原爆と防空壕 歴史が語る長崎の被爆遺構』長崎新聞社、2012年。ISBN 9784904561546 

関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯32度46分34秒 東経129度52分06秒 / 北緯32.776155度 東経129.868387度 / 32.776155; 129.868387 (カトリック浦上教会)