浦ノ城
浦ノ城(うらのじょう)は、福岡県大宰府市大宰府にあった日本の城。
浦ノ城 (福岡県) | |
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別名 | 浦城、太宰府城 |
城郭構造 | 不明 |
築城主 | 鎌倉幕府 |
築城年 | 弘安5年(1282年) |
主な城主 | 少弐氏 |
廃城年 | 不明 |
遺構 | 消滅 |
指定文化財 | なし |
概要
編集浦ノ城は、太宰府天満宮[1]から西へ500mにあった城である。かつては四王寺山[2]から南東側に延びる尾根上の頂部、ジョウセン山とナラコ山に位置したが、昭和44年(1969年)に宅地開発によって消滅した。
沿革
編集元寇の際、少弐氏は鎮西(九州)の総大将として最前線で戦った。少弐氏にとって、戦場となった筑前国・肥前国・壱岐国・対馬国は守護国である。少弐氏は 壱岐島の戦いで、前の鎮西奉行・少弐資能が負傷し、少弐経資の息子・少弐資時が戦死する損害を出している。
その後、鎌倉幕府は永仁元年(1293年)に鎮西探題を博多に設置して、太宰少弐の権限を奪った。 弘安5年(1282年)には鎌倉幕府は、元寇の恩賞と権限の委譲の補填して土地の代わりに、岩門城・大宰府城(浦ノ城)の築城を行った。浦ノ城は、古寺の原山無量寺の一角[1]に建てられた。浦ノ城の規模は、中世豪族[3]の規模で少弐氏の私的な館であった。その後、南北朝時代には[4]尊良親王、足利尊氏、足利直冬、懐良親王などが浦ノ城に入城したとされる。
脚注
編集参考文献
編集- 福岡県教育委員会(編)『福岡県の中近世城郭跡Ⅰ 筑前地域編1』福岡県教育委員会、2014年
- 渡辺文吉『武藤少弐興亡史』海鳥社 1989年