淺野 春道(あさの しゅんどう)は、江戸時代後期の尾張藩医師本草学者男性

 
淺野 春道
時代 江戸時代
生誕 明和6年(1769年
死没 天保11年1月3日1840年2月5日
別名 鵲巣・栗亭(号)
戒名 松竈院春山一道居士
墓所 功徳院_(名古屋市)
主君 徳川斉朝
尾張藩
星野玄道、他少なくとも1名
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生涯

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尾張国一宮浅野の出身。明和6年(1769年)、医者の家に生まれた。浅井紫山の医学館で医術を学び、講師の野間林庵(5代)が浅野の面倒を見ていた。京都小野蘭山本草学を学び、さらに長崎に遊学した。帰郷後、名古屋鍋屋町で町医者となる。

文化11年(1814年)、名古屋藩奥医師(藩医)に抜擢される。藩より居宅拝領があったが辞退し、元の家に住み続けた。奥医師として藩内の医師を監督する傍ら、珍しい品物や古銭を収集し、盆栽を愛し、変わった草花を好んだ。水谷豊文大窪太兵衛石黒済庵岡林清達柴田洞元西山玄道浅野文達大河内存真らと定期的に本草会を開き、薬物の鑑定大会、『本草綱目』の講読等を行った(のちの嘗百社)。尾張本草学の中心人物の一人。

医術の門弟に三村玄澄、高田正敬などがいる。本草学の門弟には、水谷豊文らがいる。

天保11年(1840年)正月3日死去。やその切干が好物で、命日には墓前に供えられたという。

子孫

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子孫は代々尾張藩医となった。次男の孚元、を玄道は星野玄学の養子となり、彼もまた医者となった。昭和平成年間にプロ野球で活躍した星野仙一は、玄道の玄孫(春道の来孫、五世の孫)である。

参考文献

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  • 吉川芳秋 木村陽二郎・遠藤正治編『医学・洋学・本草学者の研究―吉川芳秋著作集―』八坂書房 1993年10月28日初版 ISBN 4-89694-636-7 「二 浅野春道」p70-71(初出:『関西医界時報』昭和16年8月8日)
  • ファミリーヒストリー▽アンコール星野仙一~父と母の生きざま 燃える男の原点」 - 日本放送協会 2015年5月22日放映 2018年1月10日アンコール放映

外部リンク

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