浅野忠長
浅野 忠長(あさの ただなが)は、江戸時代前期の安芸国広島藩の家老。三原浅野家第2代。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正20年(1592年) |
死没 | 万治3年8月26日(1660年9月30日) |
改名 | 大橋吉教→浅野忠長 |
別名 | 作之丞、通称:甲斐 |
墓所 | 広島県三原市本町宗光寺 |
主君 | 浅野長晟→光晟 |
藩 | 安芸広島藩家老 |
氏族 | 大橋氏→浅野氏 |
父母 |
父:大橋清兵衛、母:浅野忠吉の次女 養父:浅野忠吉 |
妻 | 正室:正室浅野知近の娘 |
子 | 忠真 |
略歴
編集天正20年(1592年)11月、加藤光泰の重臣・大橋清兵衛の子として甲斐に生まれる。その後、外祖父浅野忠吉の養子となり、紀州藩時代から広島藩転封初期の浅野家に仕えた。紀州藩時代の慶長19年(1614年)、慶長20年(1615年)には大坂の陣に出陣している。
広島転封後の元和7年(1621年)、忠吉の死去により家督相続し、広島藩筆頭家老として重要な支城である三原城主となる。
元和8年(1622年)、頼兼新田を干拓する。寛永元年(1624年)5月、幕命で江戸城清水門修築、寛永6年(1629年)には、江戸城和田倉門石垣修理の指揮を執り、賞された。
寛永9年(1632年)に藩主光晟が16歳で藩主となったため、家老として良く補佐した。寛永12年(1635年)5月、江戸城二の丸修理の指揮を賞され、将軍より時服を賜る。
正保元年(1645年)、三原横山新田を干拓する。承応元年(1652年)、三原にて関船八幡丸を建造する。
明暦2年(1656年)、隠居して家督を嫡男の忠真に譲り、因甫と号した。万治3年(1660年)8月26日、広島の自邸で死去、享年69。