浅川敏靖
浅川 敏靖(あさかわ としのぶ[1] / としやす、1860年6月7日(万延元年4月18日[2])- 1933年(昭和8年)6月29日[2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。馬政の権威として知られた[3]。
経歴
編集甲斐国巨摩郡西井出村(のち山梨県北巨摩郡大泉村、現北杜市大泉町西井出)で、酒醸造業・浅川周蔵の四男として生まれる[2][3][4][5]。甲府徽典館で学び、小学校訓導、校長を務めた後、1881年、陸軍教導団に入団[2][3][4][5]。1886年6月25日、陸軍騎兵少尉に任官し[1]、同月28日、陸軍士官学校(旧8期)を優等で卒業し[6]、騎兵第1大隊小隊長に任じられた[7]。1889年5月、陸軍留学生としてドイツ帝国へ留学を命ぜられ、1892年5月に帰国した[4][8]。
1894年、日清戦争に第2軍所属の第1師団騎兵第1大隊小隊長として出征[2][4]。士官学校教官[2][4]、騎兵第1連隊長、近衛騎兵連隊長を経て、1903年6月25日、陸軍省軍務局騎兵課長に就任[1]。日露戦争では馬の調達に腐心し、豪州から馬1万頭の輸入を行うなどの対策を講じた[2][4]。
1909年9月25日、馬政局次長、1910年6月22日、馬政長官に就任し、以後10年に渡り馬政の伸展に尽力し「浅川の馬政か、馬政の浅川か」とうたわれた[1][2][4]。1914年8月8日、陸軍中将に進み、1920年8月10日、待命、同年12月1日、予備役に編入された[1][9]。
その後、中央畜産会副会長を務め、1924年から中央競馬協会の事業である『日本馬政史』の編纂に従事し、上古から1921年までの歴史を纏めた全5巻を1928年8月に完成させた[2][4]。墓所は多磨霊園。
栄典
編集- 位階
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正八位[10]
- 1902年(明治35年)2月20日 - 正六位[11]
- 1904年(明治37年)9月13日 - 従五位[12]
- 1909年(明治42年)10月20日 - 正五位[13]
- 1914年(大正3年)9月1日 - 従四位[14]
- 1919年(大正8年)9月20日 - 正四位[15]
- 1920年(大正9年)12月28日 - 従三位[16]
- 勲章
脚注
編集- ^ a b c d e 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』73-74頁。
- ^ a b c d e f g h i 『20世紀日本人名事典 あ-せ』50-51頁。
- ^ a b c 『山梨百科事典』増補改訂版、18頁。
- ^ a b c d e f g h 『海を越えた日本人名事典』新訂増補、66頁。
- ^ a b 『日本人名大事典』第1巻、51頁。
- ^ 『日本陸海軍総合事典』第2版、625頁。
- ^ 『官報』第898号、明治19年6月30日。
- ^ 『幕末明治海外渡航者総覧 第1巻』31頁。
- ^ 『日本陸軍将官辞典』23頁。
- ^ 『官報』第1035号「叙任」1886年12月10日。
- ^ 『官報』第5587号「叙任及辞令」1902年2月21日。
- ^ 『官報』第6367号「叙任及辞令」1904年9月17日。
- ^ 『官報』第7899号「叙任及辞令」1909年10月21日。
- ^ 『官報』第627号「叙任及辞令」1914年9月2日。
- ^ 『官報』第2141号「叙任及辞令」1919年9月22日。
- ^ 『官報』第2524号「叙任及辞令」1920年12月29日。
- ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
参考文献
編集- 富田仁編『海を越えた日本人名事典』新訂増補、日外アソシエーツ、2005年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 『20世紀日本人名事典 あ-せ』日外アソシエーツ、2004年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 手塚晃・国立教育会館編『幕末明治海外渡航者総覧 第1巻 (人物情報編)』柏書房、1992年。
- 『山梨百科事典』増補改訂版、山梨日日新聞社、1989年。
- 『日本人名大事典』第1巻、平凡社、1979年(『新撰大人名辞典』(昭和12年刊)の改題複製)。