浅岡一
日本の教育者
浅岡 一(あさおか はじめ、嘉永4年1月8日[1]〈1851年2月8日〉 - 大正15年〈1926年〉9月25日)は、明治時代の教育者。号は朴堂、東巌。三男は脇光三(天津の北支那毎日新聞社記者兼特務機関員)。
生涯
編集岩代国安積郡桑野村(現在の福島県郡山市)に二本松藩士浅岡段介の五男として生まれる(四男の兄は長野高等女学校校長を務めた教育者渡辺敏)。幼名は音吉。会津戦争では鉄砲組として出陣し、白河口の戦いで負傷した。
明治2年に上京し、漢学を林靏梁に、仏学を開成学校で学ぶ。同5年9月より司法省明法寮で修学。同6年(1873年)6月に文部省十三等出仕となり、教師課、編書課に勤務しながらフランス語を修めた。同7年(1874年)7月、広島師範学校の五等教諭となり、太政大臣宛てに君民同治論を建白した。同8年(1875年)11月、東京女子師範学校五等教諭に転じ、同10年(1877年)以降は東京府属、文部省属等を経て、同15年(1882年)11月に和歌山県学務課長に転任。同19年(1886年)9月に長野県尋常師範学校校長兼長野県学務課長に任じられた。
長野師範在任中は、信濃教育会の初代会長に推挙され、同20年(1887年)に付属小学校、同21年(1888年)に女子部を設置し、女子教員養成の道を開いた。人格主義者で知られ、被差別部落出身の教員大江礒吉を庇護した。同26年(1893年)11月、東京の華族女学校教授に転じ、同39年(1906年)10月には旧制の福島県立会津中学校(現・福島県立会津高等学校)校長に赴任した。大正元年(1912年)11月末に依願免職。
明治30年(1897年)、勲六等瑞宝章受章。大正11年(1922年)、杉浦重剛撰文・比田井天来揮毫による頌徳碑が長野師範に建立された。
脚注
編集- ^ 国立公文書館所蔵「京都府属八代規外八名尋常師範学校長被任ノ件」添付履歴書の記載「福島縣士族/浅岡 一/嘉永四年正月八日生」に依る。
参考文献
編集- 市川虎雄『信濃教育史概説』信濃毎日新聞社出版部、1933年。
- 『長野師範人物誌』信濃教育会出版部、1986年。
- 『日本人名大辞典』講談社、2001年。
関連文献
編集- 国立公文書館所蔵「京都府属八代規外八名尋常師範学校長被任ノ件」明治19年11月16日(請求番号:任A00101100、件名番号:032)。浅岡一の明治5年より明治19年迄の履歴書添付。
- 「陸軍通訳脇光三生死不明中俸給支給方の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03027688100、明治37年 「満大日記 10月 自16日 至31日」(防衛省防衛研究所)。浅岡一の戸籍謄本添付。
公職 | ||
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先代 中根明 |
福島県立会津中学校長 1906年 - 1912年 |
次代 落合寅平 |
先代 塩野宗一 長野県師範学校長 |
長野県尋常師範学校長 1886年 - 1893年 |
次代 正木直太郎 |
その他の役職 | ||
先代 肥田野畏三郎 |
信濃教育会会長 1886年 - 1893年 |
次代 正木直太郎 |