津田重次
津田 重次(つだ しげつぐ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。加賀藩家老。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正4年(1576年) |
死没 | 慶安4年4月4日(1651年5月23日) |
改名 | 半四郎(幼名)→重次 |
別名 | 大学、和泉、勘兵衛(通称) |
主君 | 前田利長→利常→光高 |
藩 | 加賀藩家老 |
氏族 | 津田氏 |
父母 | 父:津田重久 |
兄弟 | 女子(某為三妻)、平蔵、女子(某宗意妻)、重次、重以、女子、重昌、四郎兵衛、女子(加藤石見妻)、女子(篠島豊前妻)、女子、与右衛門、福 |
子 |
盛昭、盛澄 養子:康隆(松平康定の五男) |
略歴
編集天正14年(1576年)、津田重久の次男として誕生する[1]。
慶長2年(1597年)、前田利長に仕えて550石を与えられ、のちに100石を加増され大小将となり、慶長8年(1603年)に200石を加増され大小将頭となる[2]。
慶長15年(1610年)に父、重久が隠居すると家督を継いで大聖寺城の守将を務めた[2]。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では弟の重以とともに先鋒を務め、翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では兜首15級を挙げたことにより3500石を加増され、都合10,000石を食む大身となり家老に取り立てられ、司法と農政を司った[2]。
しかし寛永18年(1641年)、金沢城下に重次はキリシタンであり、先年に高山右近が流罪となった際に棄教したものの内心では改宗していないと書き付けた高札が立てられ[注 1]、これを受けて前田利常は重次を江戸に召喚するが、重次の宗派は禅宗であり、また、キリシタンであるという証拠も無く、結局は湯島・本郷に蟄居して、慶安4年(1651年)4月4日に死去した[2]。
その後、重次の実子である盛昭、盛澄は父を埋葬したのち能登に帰国して閉居するが、万治2年(1659年)、前田綱紀は盛昭に1,000石、盛澄に300石、康隆の子の安定に200石を与えて家を興させた[2]。なお、盛昭の系統は宝暦7年(1757年)に断絶するが、康隆の次男市兵衛の系統は人持組となり、知行1,000石を食んだ[2]。
注釈
編集- ^ この一件は公事を起こしたものの敗れて重次の裁決によって磔となった柴屋という煙草屋の一類の仕業ではないかという噂があった。