泉 淸子(いずみ きよこ、1909年12月21日 - 1950年8月26日)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。新字体表記泉 清子、本名泉井 初子(いずい はつこ)[1][2][3][4][5][6][10]サイレント映画の時代に、「ヴァンプ女優」として知られた[1][4][6]

いずみ きよこ
泉 淸子
泉 淸子
1929年の写真。
本名 泉井 初子 (いずい はつこ)
生年月日 (1909-12-21) 1909年12月21日
没年月日 (1950-08-26) 1950年8月26日(40歳没)
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市(現在の同府同市天王寺区
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市
職業 女優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1925年 - 1947年
主な作品
雁金文七
孔雀の光
首の座
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人物・来歴

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1909年明治42年)12月21日大阪府大阪市(現在の同府同市天王寺区)に生まれる[1][2][3][4][5][6][10]

1924年(大正13年)4月、旧制小学校を卒業し、満15歳になった1925年(大正14年)、女優津守玉枝の内弟子になり、同年4月、帝国キネマ演芸小阪撮影所に入社した[1][4][5][6][7][8]。同年に公開された『雁金文七』(監督山下秀一)に主要な役柄に抜擢されて出演、映画界にデビューした[1][4][6][7][8]。1926年(大正15年)3月、同社の芦屋撮影所に移籍するが、家庭の事情で止むを得ず退社し、カフェー「ユニオン」を経営していた[5]。1928年(昭和3年)、牧野省三が主宰する京都のマキノ・プロダクションに入社する[1][4][7][8]。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、同年9月に発表された、長男のマキノ正博を中心とした新体制において、俳優部にその名が掲載されている[12]。同社はその後、経営が悪化し、1931年(昭和6年)4月24日に公開された『京小唄柳さくら』(監督金森万象)が同社の最終作品になったが、泉は同作にも出演している[7][8]

同年、帝国キネマ演芸に復帰し、同社の太秦撮影所に所属、『天保入墨奇談』(監督押本七之輔)に出演、同作は同年9月8日に公開されたが、同社がそれに先立つ同年8月28日に新興キネマに改組されたため、泉は継続的に新興キネマの撮影所(のちの新興キネマ京都撮影所)に所属した[1][4][7][8]。1936年(昭和11年)5月7日に公開された『桃色武勇伝』(監督山内英三)に出演したのを最後に、同社を退社、反時代的にサイレント映画を製作する極東映画に移籍した[1][7][8]。1937年(昭和12年)には、京都に戻り、マキノトーキー製作所の跡地にできた今井映画製作所に入社するが、1938年(昭和13年)4月21日に公開された『俵星玄蕃』(監督児井英男)に出演したのを最後に同社を退社、満28歳で映画界を去る[1][4][7][8]

中国大陸に渡り、北京市内で日本式のバーを経営する[13] が、第二次世界大戦が終結し、財産をすべて失って引き揚げる[2][4]大映京都撮影所が製作し、1947年(昭和22年)6月10日に公開された『田之助紅』(監督野淵昶)に出演したが、それ以降の出演記録は見当たらない[7][8][10]

その後は、祇園の一角で料亭を経営していたが、1950年昭和25年)8月26日、死去する[1][2][3][4][6][10]。満40歳没。

フィルモグラフィ

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クレジットはすべて「出演」である[7][8]。公開日の右側には役名[7][8]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[11][14]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

帝国キネマ演芸

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すべて製作はそれぞれ特筆した撮影所、配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画である[7][8]

小坂撮影所
芦屋撮影所
長瀬撮影所

マキノプロダクション御室撮影所

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怪談 狐と狸』(1929年)出演時、満19歳。左は別所益枝

すべて製作は「マキノプロダクション御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画である[7][8]

新興キネマ

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特筆以外すべて製作・配給は「新興キネマ」、すべてサイレント映画である[7][8]

新興キネマ京都撮影所

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特筆以外すべて製作は「新興キネマ京都撮影所」、配給は「新興キネマ」、特筆以外はすべてトーキーである[7][8]

極東映画

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すべて製作・配給は「極東映画」、すべてサイレント映画である[7][8]

今井映画製作所

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すべて製作は「今井映画製作所」、配給は「東宝映画」、すべてトーキーである[7][8][9]

戦後

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k キネマ旬報社[1980], p.72.
  2. ^ a b c d e 日本図書センター[1993], p.91.
  3. ^ a b c d 日外[1983], p.41.
  4. ^ a b c d e f g h i j k 泉清子コトバンク、2013年4月15日閲覧。
  5. ^ a b c d e 映画世界社[1928], p.7.
  6. ^ a b c d e f g h 泉清子jlogos.com, エア、2013年4月15日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 泉清子日本映画データベース、2013年4月15日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq 泉清子、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月15日閲覧。
  9. ^ a b c d 泉清子日本映画製作者連盟、2013年4月15日閲覧。
  10. ^ a b c d e f 泉清子KINENOTE, 2013年4月15日閲覧。
  11. ^ a b c d e f 泉清子東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月15日閲覧。
  12. ^ 1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録立命館大学、2013年4月15日閲覧。
  13. ^ 改造[1942], p.152.
  14. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年4月10日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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