河村恭輔
日本の陸軍軍人
河村 恭輔(かわむら きょうすけ、1883年7月26日 - 1950年2月26日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
河村 恭輔 | |
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生誕 |
1883年7月26日 山口県 |
死没 | 1950年2月26日(66歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1903 - 1938 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
第1師団長 野戦重砲兵第4旅団長 野戦砲兵第22連隊長 |
戦闘 | 日露戦争 |
経歴
編集山口県出身。村上正路陸軍大佐の三男として生まれ、河村正彦陸軍中将の養子となる。広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1903年(明治36年)11月、陸軍士官学校(15期)を卒業。翌年2月、砲兵少尉に任官し下関重砲兵連隊付となる。日露戦争に伴い1904年(明治37年)7月から1906年(明治39年)2月まで出征した。重砲兵第5連隊付などを経て、1915年(大正4年)12月、陸軍大学校(27期)を卒業した。
重砲兵第5連隊中隊長、陸軍兵器本廠付、第12師団参謀、野砲兵第12連隊付(欧州出張)などを経て、1920年(大正9年)10月から翌年7月まで平和条約実施委員を務めた。参謀本部員、兼陸大教官、陸軍重砲兵学校教導連隊大隊長、参謀本部課長などを歴任し、1926年(大正15年)7月、砲兵大佐に昇進。
1928年(昭和3年)8月、野砲兵第22連隊長を経て、1931年(昭和6年)8月、陸軍少将に進み津軽要塞司令官に就任。野戦重砲兵第4旅団長、砲兵監部付、重砲兵学校長を歴任し、1935年(昭和10年)8月、陸軍中将に進んだ。第16師団留守司令官を経て、二・二六事件の1936年(昭和11年)3月、第1師団長に親補され、同師団が満州駐留となり渡満した。1938年(昭和13年)7月、参謀本部付となり、翌月、予備役に編入された。後に防空協会常務理事に就任した。
栄典
編集- 位階
- 1904年(明治37年)4月7日 - 正八位[1]
- 1905年(明治38年)8月18日 - 従七位[2]
- 1910年(明治43年)9月30日 - 正七位[3]
- 1915年(大正4年)10月30日 - 従六位[4]
- 1920年(大正9年)11月30日 - 正六位[5]
- 1935年(昭和10年)9月2日 - 従四位[6]
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]