江口 襄(えぐち のぼる、1854年3月8日嘉永7年2月10日) - 1924年大正13年)7月31日[3])は、栃木県烏山町出身の医師陸軍二等軍医正。作家江口渙の父。

1888年プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と[1]。中列右端が江口。前列左より河本重次郎山根正次田口和美片山國嘉石黑忠悳隈川宗雄尾澤主一[2]。中列左から森林太郎武島務中濱東一郎、佐方潜蔵(のち侍医)、島田武次(のち宮城病院産科長)、谷口謙瀬川昌耆北里柴三郎[2]。後列左から濱田玄達加藤照麿北川乙治郎[2]

来歴

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1881年(明治14年)、東京医学校[4]。同期に森鷗外小池正直らがいた[4]。軍医となり、日本で最初に肺外科手術に成功した[5]。小倉師団では森鷗外の前任軍医部長を務めた[5]。鷗外の『』のモデルの一人と言われている[6]

1885年(明治18年)東京府が「郡区医職務章程」を制定した際、郡医志願者の試験委員を務め、死体検案試験を担当した[7]

1892年(明治25年)相馬事件の解剖主任を務める[8]相馬誠胤陸奥中村藩6万石第13代藩主)の死因に疑義がもたれたため青山墓地に葬られた遺骸を掘り起こし、胃部、心臓部などの局部を解剖した。

1897年(明治30年)大阪城南病院院長就任[9]

1904年(明治37年)日本赤十字社三重支部山田病院(山田赤十字病院、三重県度会郡四郷村)初代院長。

1912年(明治45年)退職し、故郷の烏山町に住む[10]

人物

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東大医学部で森鷗外や、詩人野川隆の父の野川二郎と同期であった。また、北里柴三郎らとも親交があった。鴎外は『独逸日記』の中で、江口のことを「江口は輕躁浮薄、歐洲文藝の林に入れども。毫も華を採り實を拾ふに意なく、利辯巧に官人に媚び、病家を得るを以て榮と爲す」、「江口の毫も學問の精神なく、言論陋甚しき」、「(海江田は)大に江口の侫を嫌ふ」、「(早川曰く)江口と云ふもの、その云爲頗る怪むべし云々」などと記している[11]

栄典

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脚注

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  1. ^ 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、241頁。(ページ番号記載なし)
  2. ^ a b c 石黑忠悳著『石黑忠悳懷舊九十年』博文館1936年、242頁。(ページ番号記載なし)
  3. ^ 江口渙『少年時代』p66
  4. ^ a b 東京帝国大学一覧 明治37-38年学士及卒業生姓名/106p
  5. ^ a b 東京医学校時代の集合写真 ミュルレル教師と医学生たち永井良三、『東大病院だより』72号、2011.6
  6. ^ 原武哲「江口渙・三木清書簡の紹介 : 野田宇太郎文学資料館所蔵書簡翻刻(9)」『福岡女学院大学紀要. 人間関係学部編』第4巻、福岡女学院大学、2003年3月、a16-a1、CRID 1050845762532923520hdl:11470/345ISSN 1347-3743 
  7. ^ 樋口輝雄「78)明治18年に東京府が実施した郡区医採用試験について(一般口演,一般演題抄録,第41回日本歯科医史学会・第114回日本医史学会合同総会および学術大会)」(PDF)『日本歯科医史学会会誌』第30巻第2号、日本歯科医史学会、2013年4月、190-190頁、CRID 1540009770420292096NDLJP:11513168 
  8. ^ 明治26年の重要記事(5)『新聞集成明治編年史. 第9卷』林泉社、1940年
  9. ^ 佐久間温巳「一般人を対象とした現役軍医の病院」(PDF)『日本医史学雑誌』29(2)、日本医史学会、1983年、NDLJP:11339683 
  10. ^ 江口渙『少年時代』(光和堂、1975年)p1
  11. ^ 独逸日記
  12. ^ 『官報』第3818号「叙任及辞令」1896年3月25日。
  13. ^ 『官報』第4326号「叙任及辞令」1897年12月1日。