気多王
奈良時代の皇族
気多王(けたおう/けた の おおきみ、生没年不詳)は、奈良時代の皇族。系譜は不明だが、豊野出雲同様に鈴鹿王の系譜に連なるものだとする説がある[1]。名は気太王とも記される[2][3][4]。官位は従五位上・安芸守・皇后御葬司。
経歴
編集称徳朝の天平神護2年(766年)12月、西大寺行幸の際に、清原王・梶島王・乙訓王とともに无位から従五位下に叙せられる[5]。天平神護3年(767年)、鍛冶正[2]。
光仁朝の宝亀2年(771年)、伊勢国に派遣され、斎宮を造っている。この時も鍛冶正[3]。この翌年の11月には酒人内親王が斎王に任命されている[6]。宝亀10年(778年)、文室水通の後任の安芸守に任命されている[7]。
桓武朝の延暦3年(783年)12月、従五位上に進み[4]、同8年(788年)12月、同9年(789年)閏3月にはそれぞれ皇太后高野新笠、皇后藤原乙牟漏の御葬司の1人となっている[8]。
官歴
編集『続日本紀』による。