毗有王(ひゆうおう、生年不詳 - 455年)は百済の第20代の王(在位:429年[1] - 455年)である。

毗有王
各種表記
ハングル 비유왕
漢字 毗有王
発音 ピユワン
日本語読み: ひゆうおう
ローマ字 Biyu-wang
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来歴

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先代の久尓辛王の異母弟[2][3]。腆支王は八須夫人と解氏の女性という2人の夫人がおり、久尓辛王は八須夫人から生まれ、毗有王は解氏の女性から生まれたとみられる[4]。なお、八須夫人は倭人[4]。『三国史記』にはは伝わらず、『宋書』には百済王余毗として現れる。429年[1] 12月に先王の薨去により王位についた[5]。子に蓋鹵王

治世

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  • 429年南朝宋朝貢。翌430年には義兄・久尓辛王に与えられていた爵号を継承することが許され「使持節・都督・百済諸軍事・鎮東大将軍・百済王」に冊封された。
  • 433年以来新羅へ使者を送って和親を要請し、贈り物の交換を通じて両国の修好が成立した(羅済同盟)。このように中国南朝(宋)~百済~新羅・倭国の協調体制をもって、北朝(北魏)と結んだ高句麗に対抗する態勢を整えた。
  • そのため455年(9月以降とみられる)に薨去するまで、毗有王の代にあっては戦乱記事はみられずに終わった。王の死の直後(455年10月)に高句麗が百済に侵入した際には、新羅からは百済を救援する軍が派遣されており、毗有王の目指していた対高句麗の体制は奏功したものと見られる。
  • 文化面では、南朝宋への朝貢を通じて『易林』『式占』などの書物を求め、南朝宋の文帝より与えられている。

脚注

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  1. ^ a b 『三国史記』では「427年」と記載。
  2. ^ 三国史記』百済本紀・毗有王紀の分注に「第18代の腆支王の庶子」と記されている。
  3. ^ 三国史記』の本文では「久尓辛王の長男」とするが、年齢的に久尓辛王の実子とするのは無理がある。
  4. ^ a b 盧重国 (2005年). “5世紀の韓日関係史-『宋書』倭国伝の検討-” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 263-264. オリジナルの2021年11月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20211127011246/https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-04j.pdf 
  5. ^ 田中俊明 (2021年3月31日). “『日本書紀』朝鮮関係記事と百済三書”. 京都産業大学日本文化研究所紀要 26 (京都産業大学日本文化研究所). https://hdl.handle.net/10965/00010553 

参考文献

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  • 金富軾 著、井上秀雄 訳『三国史記』 第1巻、平凡社東洋文庫372〉、1980年。ISBN 4-582-80372-5 
  • 金富軾 著、井上秀雄 訳『三国史記』 第2巻、平凡社〈東洋文庫425〉、1983年。ISBN 4-582-80425-X