比企 藤十郎(ひき とうじゅうろう)は、江戸時代前期の旗本比企能員の末裔を称する比企家600石[注釈 1]の当主であったが、1696年生類憐れみの令に抵触して追放処分を受け、武蔵国比企郡で帰農した。

 
比企 藤十郎
時代 江戸時代前期
別名 実名:稚久
幕府 江戸幕府 大番
主君 徳川家綱徳川綱吉
氏族 比企氏
父母 父:比企久員
兄弟 藤十郎、女子(永井主税直方の妻)
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旗本比企家には他にも「藤十郎」を通称とする人物がいるが[注釈 2]、本記事では旗本としての最後の当主を扱う。実名については「稚久」と翻刻する書籍がある一方[1]、「雅久」とも紹介されている[2][3]

生涯

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旗本比企家は、鎌倉時代の豪族・比企能員の末裔を称する。本記事の藤十郎は、大番組頭を務めた比企久員(藤十郎・次左衛門)の子として生まれた[4]。寛文11年(1671年)2月28日に徳川家綱に御目見[4]。父の死に伴い延宝8年(1680年)9月7日に家督を継ぐ[4]。天和3年(1683年)閏5月21日に大番入りした[5]

元禄9年(1696年)8月21日、藤十郎は追放処分を受けた[5]。『寛政重修諸家譜』では「かねて殺生を禁ぜられしに是を犯せしことありしにより追放せられ」とある[5]。元禄13年(1700年)5月20日に罪を赦されているが[5]、旗本としては系譜が絶えている。

新編武蔵国風土記稿』によれば比企藤十郎は「営中にて矢負鳥の虚言をかたりしこと常憲院殿の御聞に達し御糺明ありて追放せられける」という[1]。「矢負鳥」は矢が刺さって落ちた鳥のことである[6]。江戸市中において鳥類は鷹狩との関係もあるため幕府の管理対象とされており、落鳥は届け出を行ってしかるべき行政処理を受ける必要があった[7][注釈 3]。『徳川実紀』によれば「矢を負いし鴨のことにより偽言を申せしとして」小普請奉行の飯田伴有(次郎右衛門)が伊豆大島に流罪となり[注釈 4]、比企藤十郎も「おなじ事によりて」追放されたとある[9]

『新編武蔵国風土記稿』によれば、藤十郎は先祖ゆかりの地[注釈 5]である中山村(現在の埼玉県比企郡川島町中山)に土着した[10]。その子孫である比企道作(諱は貞員)[注釈 6]は村で医師を務めている[11][10]

脚注

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注釈

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  1. ^ 知行地400石+蔵米200俵
  2. ^ 『寛政重修諸家譜』によれば、本記事の人物の父・久員も藤十郎を称している。
  3. ^ 根崎道男の論文(2008年)では、江戸での落鳥の取り扱いが重く、またそこに旗本が絡んだ際にはさらに改まった手続きが必要であった事例として以下を示す。寛政8年(1796年)12月、江戸市中で矢の刺さった鴨一羽が届け出られたことがあったが、この矢の柄に書院番士を務める旗本の名前が記されていたことから、通常のように町奉行鳥見での行政処理ができず、旗本の統制にあたる目付の取り扱う案件となった。この件との関係は記録されていないものの、この旗本は同月内に異動を命じられた[6]
  4. ^ 飯田について『寛政譜』の飯田家の譜は「時の制禁を犯すことありて」と記す[8]。飯田は比企藤十郎と同じく元禄13年(1700年)5月20日に罪を赦され、その後旗本に復帰している[8]
  5. ^ 高祖父にあたる比企則員が天正年間に金剛寺を再興した。
  6. ^ 藤十郎稚久―次郎四郎重久―藤五郎政久―藤五郎満久―玄仙員吉―道作貞員[1]

出典

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  1. ^ a b c 『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十九・比企郡之四・中山村「旧家者比企道作」、内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之189』102/113コマ
  2. ^ 比企の地名の由来 と 比企一族について”. ときどりの鳴く 喫茶店. 2024年8月21日閲覧。[信頼性要検証]
  3. ^ 武蔵人物伝 ⑫比企遠宗・⑬比丘尼 ⑭比企能員 ⑮比企能本”. はるんの気ままにぶらり. 2024年8月21日閲覧。[信頼性要検証]
  4. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第千百二十五「比企」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第六輯』p.862
  5. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻第千百二十五「比企」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第六輯』p.863
  6. ^ a b 根崎道男 2008, p. (47).
  7. ^ 根崎道男 2008, p. (50).
  8. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第百四十三「飯田」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.856
  9. ^ 『常憲院殿御実紀』巻丗四・元禄九年八月廿一日条、経済雑誌社版『徳川実紀 第四編』p.537
  10. ^ a b 『新編武蔵風土記稿』巻之一百八十九・比企郡之四・中山村「旧家者比企道作」、内務省地理局版『新編武蔵風土記稿 巻之188』100/113コマ
  11. ^ 『姓氏家系大辞典 第5巻』, p. 4963.

参考文献

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