武藤孝司
武藤 孝司(むとう たかし、1973年6月6日 - )は、神奈川県川崎市出身の元プロ野球選手(内野手)、野球指導者。
神奈川フューチャードリームス 監督 #76 | |
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2024年4月21日 俣野公園・横浜薬大スタジアムにて | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県川崎市 |
生年月日 | 1973年6月6日(51歳) |
身長 体重 |
176 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 遊撃手、二塁手 |
プロ入り | 1995年 ドラフト3位 |
初出場 | 1996年5月15日 |
最終出場 | 2002年10月18日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
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この表について
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経歴
編集横浜商高では1990年に夏の甲子園に出場し、2回戦の日大東北戦ではランニング本塁打を記録するなど、チームのベスト8進出に貢献した。創価大学で1年秋に首位打者、最多打点で最優秀新人、MVPとなる。盗塁王1回、ベストナイン3回。1995年のドラフトで近鉄に3位指名され、入団。
2年目の1997年、オープン戦で振るわなかったために開幕一軍はならなかったが、開幕8試合目から1番でスタメン出場するようになり、遊撃手のレギュラーとしても定着、大村直之がスタメンに入った後は2・9番併用、8月から再び1番に入る。入団当初「守備はいいがバッティングはいまひとつ」といわれていたにもかかわらず、規定打席に到達し、.282、26盗塁の好成績を残し、さらにはリーグ2位の三塁打7本も記録、同期の岡本晃と共に新人王候補に挙がる活躍を見せた。
1998年は初の開幕一軍・スタメンとなった(千葉ロッテマリーンズ戦)延長でサヨナラ安打を放ち、チームの3年連続開幕戦勝利に貢献、同時に自身初のお立ち台にもあがった。前半戦は1・2・9番を大村直之・水口栄二・武藤で、7月ごろからは大村と共に俊足左打者の1・2番コンビを形成、共にオールスターゲームに出場するも、7月以降は打撃不振に陥る。特に8月の月間打率は.189、9・10月は.184といずれも2割を切る状態で、結局.250でシーズンを終える。また守備でも小坂誠の16に次ぐ15失策を記録しており、後半以降ベテランの吉田剛に遊撃のスタメンを譲る結果となった。
1999年も大村と1・2番を打ったが、6月の初めに月間打率.125の不調や守備でのミスによるファーム行き、ケガの影響で規定打席到達はならなかった。2週間ほどファームでフォームの修正などを行い、7月は月間打率.314、8月は.323と絶好調になり、9月12日の福岡ダイエーホークス戦(大阪ドーム)で、プロ初本塁打を放ち、「やっと出てくれてホッとしました。」とコメントしている(ちなみにこのときは1対2で近鉄が敗れている)。翌年の背番号変更で2000年のシーズンへの期待から6の背番号をもらう。この年私生活で結婚している。武藤が後半になって盛り返した反面、前年とは逆に今度は大村が不振になった。
2000年は自身初の開幕戦リードオフマン「1番・二塁手」で起用されたものの、4月は.245だった。打順も9番に下がりがちになったが、その後はほかの選手がシーズンを通してもしくはシーズン途中で失速して不振になる中、下位打線(基本は9番。6番の礒部公一が顔面死球で離脱し、的山哲也が入った期間以降は基本8番)で安定した打撃をみせ、例年のように夏ごろから上位打線での起用が多くなり、5月から10月の月間打率は3割を超えた。7月8日のオリックス・ブルーウェーブ戦で、プロ入り2本目にして最後の本塁打をグリーンスタジアム神戸で、推定飛距離115mで右翼席中段に届く本塁打を放った(このときも4対3で敗れている)。これには武藤自身も「(試合前の)バッティング練習でもあんなに飛んだことはありません」と驚きのコメントを残した。8月に太ももの違和感による離脱で打席数が不足し、一時打撃ランキングから姿を消したものの、規定打席に到達し、打撃成績ベスト10中7位の打率.311、20盗塁(打率、盗塁数ともにチーム内トップ)、得点圏打率.370を記録したほか、セカンドのベストナイン得票数が大島公一についで42票の第2位など自己最高の成績を残した。但し、8月の併殺プレーの際に野手と交錯、右肩甲下筋を損傷してしまい、8月9日以降は遊撃ではなく二塁やDHとして出場し、8月8日を最後に引退まで本職である遊撃手での出場はなかった。当初、次のシーズンに間に合うか微妙だったため手術を迷っていたが、術後3か月で完治し、開幕に間に合うと復帰の見通しが立った事、球団の勧めもあり、シーズンオフの11月に右肩を縫合手術した[1]。
ところが、2001年は2月の下旬からティー練習を再開するも、当初のリハビリ計画で予定されていた3月ごろからのキャッチボールは到底できる状態ではなく、開幕どころか前半戦が絶望的となった[2]。その後6月30日に二軍の阪神タイガース戦で復帰(初打席は遊ゴロ)、7月11日の広島東洋カープ戦では復帰初スタメンで横松寿一から本塁打を打つなど、順調な滑り出しを見せたが、一軍出場はなかった(7月の前半戦終了後に吉岡雄二とともに一軍に合流しているが、今度は足を怪我したようで、その後登録されたのは吉岡だけだった)。
2002年は5月8日に2年ぶりに一軍に昇格[3]、14日に2年ぶりの安打を放ったが[4]、6月8日には再び二軍落ちし、9月27日まで昇格はなかった。10月5日の日本ハム28回戦(東京ドーム)で9回に適時打を放ち、これが一軍での最後の打点になった。結局5月、9月、10月に18試合、そのほとんどが代打としての出場で、スタメンは5月の3試合の出場にとどまった。ウエスタン・リーグで盗塁王を獲得している。
肩が完治した2003年も一軍出場はなく、当時機動力をもつ選手の不足に悩んでいた横浜とのトレード(門倉健、宇高伸次⇔福盛和男、矢野英司)の追加要員の可能性が出たが結局移籍せずシーズンオフには戦力外通告を受け、その後スカウトへの転身が発表された。
2004年は近鉄で、2005年はオリックス・バファローズで、2006年からは東北楽天ゴールデンイーグルスでスカウトを務めていたが、2012年11月30日に退団が発表された[5]。楽天スカウト時代は渡辺直人を発掘した[6]。
2013年12月30日、プロ野球独立リーグである四国アイランドリーグplusに所属する徳島インディゴソックスの守備走塁コーチに就任することが発表された[7]。2015年12月3日に徳島のコーチ退任とサンディエゴ・パドレスの日本担当スカウト就任が発表された[8]。2017年1月30日に愛媛マンダリンパイレーツのコーチに就任[9]。2シーズン務めた後、2018年12月18日に契約満了による退任が発表された[10]。
2019年からはHonda鈴鹿硬式野球部のコーチに就任。現役時代を通じて初めて社会人野球の舞台へと足を踏み入れた。
2021年1月22日、愛媛マンダリンパイレーツに野手コーチとして3シーズンぶりに復帰することが発表された[11]。3シーズン務め、2023年シーズン終了後の11月22日に同年での契約満了による退任が発表された[12]。12月25日にはベースボール・チャレンジ・リーグ(ルートインBCリーグ)・神奈川フューチャードリームスのヘッドコーチに就任することが発表された。背番号は愛媛時代と同じ76[13]。2024年シーズン終了後の10月18日、来シーズンの監督に就任することが発表された[14]。
プレースタイル・人物
編集打撃・守備・走塁
編集公式戦での初本塁打は1223打席目であり、長打力が低かった。反面巧打力が高く、テレビ番組の企画では、時速180キロのスピードボールを弾き返すなど、ミート力には定評があった[15]。
走力は入団時から定評があり、1996年5月15日から1998年6月30日まで歴代5位となる706打席連続無併殺を記録していた[16]。俊足の一方で、盗塁技術の向上を課題に挙げられており[17]、レギュラーとして出場していた4年間(1997年 - 2000年)で、盗塁成功率は最高で97年の.702である。
右肩の故障が引退の要因になったものの、大学時代は俊足と共に強肩と送球の正確さには定評があった[18]。実際にレギュラー獲得後も、「肩が強いから取れば安心」と評価されていた[15]。
人物・その他
編集2000年の契約更改の際にはチーム一の打率.311を引き合いに最低6000万円を希望したのに対し球団は2年連続最下位のチーム事情や「守備走塁面でのマイナスがある」と武藤本人の問題点を挙げ、下交渉で4800万円を提示した。武藤はこの時点で越年宣言した上で、「近鉄には縁がないのかも。近鉄にはバラ色の更改はない。だからいい選手の流出につながっている。」とフロントを批判した[19]。これに対して球団管理部次長の藤瀬史朗も「いやならFAで出て行ったらいい」と発言した。
12月6日に行われた1回目の交渉では、球団側が通常の倍の1時間の更改時間を用意したものの、わずか15分で決裂。このとき自身の性格について「感情的になってしまう」と語った[20]。21日に3回目の交渉で保留し、球団初の越年者となった[21]。
年が明けて1月10日に行われた5回目の交渉も決裂し、管理部長の足高が「更改が完了していない選手はキャンプ参加を自費でも認めない」と発言した。6回目の交渉が決裂した場合、この旨を伝える方針だったが、コミッショナー事務局から「保留権の乱用。契約の強制に当たる」との見解を受けるなど物議を醸し、球団側は発言を撤回した[22]。2000年の近鉄選手の契約更改は越年者が武藤を含めて5人(柴田佳主也、大村直之、吉岡雄二、門倉健)という異常事態になっていたが、5人のうちでも武藤は特に球団と対立を深めていた。結局、最後のキャンプイン直前、1月16日に6回目の交渉で5000万円プラス出来高払いでサインした。
一方、一軍出場ゼロに終わった翌2001年の更改では、「大幅減額を覚悟していた」という武藤に対し、シーズンを棒に振った原因である肩の手術を球団が勧めた経緯から、球団としては異例の公傷を認める形で400万円減の4600万円で更改した(1回の交渉でサイン)[23]。
応援歌は1996年にオリックス・ブルーウェーブへ移籍した大島公一のものを受け継いだ。
趣味は選手名鑑にて「音楽鑑賞」と書かれていた[24]。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1996 | 近鉄 | 14 | 20 | 17 | 2 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | .235 | .316 | .235 | .551 |
1997 | 119 | 447 | 390 | 55 | 110 | 13 | 7 | 0 | 137 | 29 | 26 | 11 | 29 | 2 | 25 | 0 | 1 | 54 | 0 | .282 | .325 | .351 | .676 | |
1998 | 127 | 470 | 392 | 53 | 98 | 20 | 3 | 0 | 124 | 32 | 16 | 9 | 38 | 2 | 34 | 0 | 4 | 36 | 1 | .250 | .315 | .316 | .631 | |
1999 | 100 | 332 | 279 | 34 | 78 | 6 | 3 | 1 | 93 | 19 | 7 | 6 | 25 | 1 | 25 | 0 | 2 | 24 | 3 | .280 | .342 | .333 | .675 | |
2000 | 119 | 436 | 366 | 62 | 114 | 20 | 6 | 1 | 149 | 41 | 20 | 9 | 15 | 3 | 46 | 0 | 6 | 31 | 3 | .311 | .394 | .407 | .801 | |
2002 | 18 | 23 | 21 | 1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 4 | 1 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .190 | .190 | .190 | .380 | |
通算:6年 | 497 | 1728 | 1465 | 207 | 408 | 59 | 19 | 2 | 511 | 123 | 71 | 36 | 110 | 8 | 132 | 0 | 13 | 150 | 7 | .278 | .342 | .349 | .691 |
記録
編集初記録
編集- 初出場:1996年5月15日、対オリックス・ブルーウェーブ8回戦(富山市民球場アルペンスタジアム)、9回表に光山英和の代打として出場
- 初先発出場:1996年8月24日、対オリックス・ブルーウェーブ23回戦(ナゴヤ球場)、9番・遊撃手として先発出場
- 初安打:同上、3回裏に豊田次郎から
- 初打点:1996年9月8日、対西武ライオンズ22回戦(藤井寺球場)、8回裏に石井貴から左前適時打
- 初盗塁:同上、8回裏に二盗(投手:石井貴、捕手:髙木大成)
- 初本塁打:1999年9月12日、対福岡ダイエーホークス25回戦(大阪ドーム)、4回裏に永井智浩から右越ソロ
その他の記録
編集- オールスターゲーム出場:1回(1998年)
背番号
編集- 48(1996年 - 1999年、2014年 - 2015年)
- 6(2000年 - 2003年)
- 43(2017年 - 2018年)
- 76(2021年 - )
登場曲
編集脚注
編集- ^ 「武藤が手術、藤井は退院(近鉄)」ISIZE SPORTS公式サイト、2000年11月7日。2001年2月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月26日閲覧。
- ^ 「近鉄 武藤の戦列復帰は7月に」サンケイスポーツ。2001年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月22日閲覧。
- ^ 「武藤が2年ぶりに一軍に復帰」サンケイスポーツ、2002年5月9日。2005年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月3日閲覧。
- ^ 「武藤が今季初のスタメン出場で初ヒット」サンケイスポーツ、2002年5月15日。2005年4月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月3日閲覧。
- ^ 「退団スタッフに関して」東北楽天ゴールデンイーグルス公式サイト、2012年11月30日。2012年11月30日閲覧。
- ^ 「「Y校出身の元近鉄バファローズ戦士」と「元ヤクルトの中継ぎ投手」が四国で描く夢」週プレNEWS。2023年11月21日閲覧。
- ^ 「徳島IS 来季の監督・コーチ・トレーナー人事のお知らせ」徳島インディゴソックス公式サイト。2013年12月30日閲覧。
- ^ 「徳島IS 武藤コーチ退任 サンディエゴ・パドレスの日本担当スカウトに就任」徳島インディゴソックス公式サイト。2015年12月3日閲覧。
- ^ 「新コーチ・トレーナー就任のお知らせ【チームからのお知らせ】」愛媛マンダリンパイレーツ公式サイト。2017年1月30日閲覧。
- ^ 「愛媛MP 武藤孝司コーチ退団のお知らせ」四国アイランドリーグplusニュースリリース、2018年12月18日。2021年9月18日閲覧。
- ^ 「2021シーズン野手コーチに武藤孝司氏 再任決定!【チームからのお知らせ】」四国アイランドリーグplusニュースリリース、2021年1月22日。2021年9月18日閲覧。
- ^ 武藤孝司野手コーチ退団のお知らせ【チームからのお知らせ】 - 愛媛マンダリンパイレーツ(2023年11月22日)2023年11月22日閲覧。
- ^ 「武藤孝司氏 ヘッドコーチ就任のお知らせ | 【公式】神奈川フューチャードリームス|BCリーグ」2023年12月25日。2023年12月25日閲覧。
- ^ 武藤孝司新監督 就任のお知らせ - 神奈川フューチャードリームス(2024年10月18日)2024年10月18日閲覧。
- ^ a b ベースボール・マガジン (1998). “週べオーロラビジョン「物事前向きプラス思考”2年目のジンクス”に挑む」”. 週刊ベースボール 1998年2月16日号: 60-61.
- ^ 「個人打撃連続記録」パリーグ BLUE BOOK。2014年12月31日閲覧。
- ^ 「大阪近鉄バファローズ選手名鑑 内野6 武藤孝司」スポニチアネックス。2001年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月1日閲覧。
- ^ ベースボールマガジン (1998). “「人物クローズアップ 武藤孝司 猛牛を新しい時代に”つなぐ”ニューヒーロー」”. 週刊ベースボール 1998年5月4日号: 111-113.
- ^ 「武藤が越年宣言 下交渉50%増に激怒」大阪日刊スポーツ。2000年12月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月22日閲覧。
- ^ 「代理人連発(近鉄)」ISIZE SPORTS 公式サイト。2001年1月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月27日閲覧。
- ^ 「球団初の越年決定(近鉄)」ISIZE SPORTS 公式サイト。2001年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月27日閲覧。
- ^ 「武藤、柴田に近鉄「キャンプ来るな」 ドロ沼更改に球団逆ギレ」スポーツ報知。2001年1月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月19日閲覧。
- ^ 「近鉄・武藤が400万円減の4600万円で一発サイン」サンケイスポーツ。2002年10月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年1月3日閲覧。
- ^ 「近鉄バファローズ2001陣容」日刊スポーツ大阪。2001年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月22日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 武藤孝司 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 選手情報 - 週刊ベースボールONLINE
- 武藤孝司 (100005394737570) - Facebook
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