武満国雄
武満 国雄(たけみつ くにお、1892年(明治25年)2月23日-1942年(昭和17年)7月15日)は、大正時代の野球選手・学生野球指導者。
経歴
編集鹿児島県薩摩郡川内町生まれ[1]。1914年(大正3年)法政大学に入学[2]。法大野球部草創期の主力選手で、ポジションはサード[3]またはライト[4]。1922年(大正11年)12月から1925年(大正14年)5月まで法大野球部監督[1]。同年6月から1927年(昭和2年)10月まで明治神宮外苑野球場建設委員常任幹事[1]。同年10月から1938年(昭和13年)4月まで明治神宮外苑管理署野球場主任[1]。同年5月から財団法人武蔵野カントリークラブ支配人を務めた[1]。1942年(昭和17年)7月15日死去[5]。
法大監督としては好成績を残せなかったが[6]、内海弘蔵(明大野球部長)・飛田穂洲(早大監督)とともに1906年(明治39年)から中断していた早慶戦復活のために尽力し、日本の学生野球発展の礎を築いた[7]。
脚注
編集- ^ a b c d e 法政大学校友名鑑刊行会 『法政大学校友名鑑』 1941年、106頁
- ^ 芦田公平・広津和郎 『六大学リーグ戦史 附・早慶野球年史』 誠文堂、1932年、49-51頁
- ^ 飛田穂洲 『早稲田大学野球部史』 明善社、1925年、198-199頁
- ^ 大和球士 『真説 日本野球史《大正篇》』 ベースボール・マガジン社、1977年、88頁
- ^ 『朝日新聞』 1942年7月16日
- ^ 1925年(大正14年)春の早法戦で大敗し(早34 - 0法)、監督辞任へと追いやられた(横井春野 『日本野球戦史』 日東書院、1932年、206-207頁)。
- ^ 「内海、武満両故人の努力は多としなければならないし、当時はその強引さを慶応も心よしとしなかったであらうが、いまとなっては感謝してゐるに相違ない。」(飛田穂洲 『球道半世記』 博友社、1951年、216-217頁)