茨城県 > 常陸大宮市 > 檜山 (常陸大宮市)

檜山(ひやま)は、茨城県常陸大宮市の大字[1]

檜山
檜山の全景
檜山の全景
檜山の位置(茨城県内)
檜山
檜山
檜山の位置(日本内)
檜山
檜山
北緯36度32分15秒 東経140度15分28秒 / 北緯36.53750度 東経140.25778度 / 36.53750; 140.25778
日本の旗 日本
都道府県 茨城県の旗 茨城県
市町村 常陸大宮市
郵便番号
311-4616
市外局番 0295
ナンバープレート 水戸

歴史

編集

中世

編集

中世において、御前山村域には30余の神社と50余の寺院が建立されていた。当時、桧山村にも2つの寺院があったものの、御前山村域で唯一、桧山村に神社がなかったとされている[2]

近世

編集

「水府志料」や『新編常陸国誌』によると、近世における桧山村の石高は263.105石。人口は約37人。村は東西に15町、南北に1里広がっていた。元々、下野国の桧山村(現茂木町)と1つの村として常陸国に属していた。また桧山村に関して、正福寺・常陸堰・常陸橋稗倉・七面明神・小聖明神・妙蓮寺・戸村十大夫居趾の記録があった[3]

1838年(天保9年)、徳川斉昭宍戸藩松平頼救の子頼位に命じ、長倉城跡を修復させた。頼位が宍戸藩に戻った後、水戸家一族松平頼譲を禄3000石で長倉村に土着させた。これに伴い、桧山村は頼譲の支配下となった[4]

1842年(天保13年)、御前山村域の検地が行われた。この天保検地による、桧山村の分米は114.128石だった[4]

近代

編集
 
分校跡碑

1872年(明治5年)8月、近代化を進める政府が学制を公布。これにより翌年の1873年(明治6年)7月18日、桧山村・上伊勢畑村・下伊勢畑村の3村が協議のもと、鯉沼網彦宅を借用し時習小学校を開校。翌明治7年10月、伊勢畑小学校に改称。教員は網彦が開校から務めたが、神職が多忙だったため1875年(明治8年)5月に辞職。同年7月から、後任として平町村の橘川尭憲を月棒3円で雇い入れた。尚、尭憲は1877年(明治10年)2月あら6月の間に師範学校で学び、準二級授業生となっている[5]

開校当時(明治8年)の児童数は124名だったが、同年8月に44名減少し80名となった。1877年(明治10年)10月に行われた試験では、36人の受験者のうち、優等5人・及第28人・落第2人だった。困窮と子守が原因で女子児童の不就学者が特に多かったが、1879年(明治12年)の出席率は男子52%・女子18%と県平均は上回っていた[6]

明治初年から昭和10年頃まで営業していた伊勢畑の宮下河岸で、一時桧山で産出していたマンガンが取り扱われていた。また、1877年(明治10年)、桧山村と上伊勢畑村から県に提出された「営業人鑑札御下渡控」には、「鵜飼船一艘・税金五〇銭・舳より艫まで五間」「イクリ舟一艘・税金二〇銭・舳先より艫まで三間一尺一寸」とあった[7]

 
消防団倉庫

1894年(明治27年)2月9日に消防規則が公布され、続いて同年6月28日、茨城県令第27号により消防規則施行細則が定められ、消防組織結成の機運が高まった。また、日華事変や太平洋戦争の勃発により消火活動のみならず、国内治安の安定と防空活動の役割を担うようになったため、名称も消防組から警防団に変わり、戦後また消防団になるなどの変遷を経て今日に至っている。しかし、伊勢畑地区の消防組に関する明治時代の記録は確認されておらず、その沿革は不明となっている。現存している記録によると、1937年(昭和12年)8月上伊勢畑・下伊勢畑消防組が消防組から警防団と改称し、戦後の1948年(昭和23年)に消防団に改め、1951年(昭和26年)、桧山地区に消防団が設置された[8]

現代

編集
 
公民館

1963年(昭和38年)4月、老人福祉法が制定されたことに伴い、御前山村にて老人クラブが結成された。檜山にも「桧山相川老人クラブ」が結成されており、1988年(昭和63年)4月1日時点で会員数22名。尚、当時の御前山の老人クラブの中で会員数が最も少なかった[9]

名所・寺社

編集

鬼渡神社

編集
 
鬼渡神社

檜山字久保前の小山に位置する神社。祭神は武甕槌命で例祭は2月11日。境内には稲荷神社のほか石祠がある。昔、鬼渡明神と小聖明神の二社があったが、1690年(元禄3年)9月に徳川光圀の命により、両社が上伊勢畑に引宮された。これに伴い、除地も替え地して七面大明神を祀った。1842年(天保13年)の上伊勢畑検地帳には、当社が社領として3石3斗6升5合と記載されている。1807年(文化4年)、細工人藤原意純の手で鬼渡大権現(高さ8尺5寸)・小聖大明神(高さ6尺1寸)が建立された。1842年(天保13年)には水戸藩の命で神仏分離し鬼渡神社1社となった[10]

本成院木曽山妙蓮寺

編集
 
妙蓮寺
 
妙蓮寺の山門

檜山字北ノ内に位置する法華宗の寺。本尊堂は昭和20年代に改修されたため、昔の面影を残すのは山門のみとなっている。1300年(正安2年)、日蓮直弟子の日弁上人が62歳の時に創立された。本堂脇の銀杏の木下には開山碑が建立されている。また1815年(文化12年)の37世碑が残っているが、何世まで続いたかは定かとなっていない。昭和初期ごろまでは住職がいたが、現在は無柱となり栃木県芳賀町の浄林寺が兼務している。11月13日には「お会式」と呼ばれるお祀りが行われ、本堂内に彩色された餅柱が飾られる。寺宝には、徳川光圀寄進の銘がある七面大明神像・釈迦涅槃図・鬼子母神像・宗祖像などがある。これらの像は、天保の寺社改革の際、破却を藩から命じられ、桧山村ではこれらを焼却したと報告している。しかし、現存しているため村で隠し持っていたとされている[11]

鍋蓋観音

編集

檜山字北向にある小さなお堂。中には経1尺2寸ほどの銅円板に観音像が刻印されたものが安置されている。青山氏14軒でこれを尊崇している[12]

鬼子母神

編集

地内の妙蓮寺にある高さ48cmの1774年(安永3年)10月のもの。縁日は4月8日[13]

甲子塔

編集

檜山には1557年(弘治3年)と1924年(大正13年)の甲子塔の文字塔がある。この塔は甲子の日(十干十二支で60日周期で一番最初にくる日)の夜行う甲子待の供養塔で、人々が集まり大黒天を祀り、夜遅くまで雑談する。これは災いを転じて福を授けてもらうことを願い行われる行事。このような甲子塔は、特に東日本に多く分布し、檜山は妙蓮寺の檀家が多く、日蓮聖人が大黒天を信仰していたことから甲子待が行われ、「甲子塔」や後述する「南無妙法蓮華経」の題目塔が見られるのではないかと云う[14]

題目塔

編集

妙蓮寺の寺前と境内に建立された2つの自然石の題目塔。前者は1727年(享保12年)のもので、高さ140cm・幅60cm。日蓮宗独特の書体で7字の題目「南無妙法蓮華経」が刻まれている。後者は1829年(文政12年)で高さ120cm・幅68cm。「奉唱題目一千余部」と記されていることから、題目を1000回余り唱えて参詣の宿願を果たし造立したとわかる[15]

人物

編集

遠利院日迂上人

編集

桧山出身の僧侶。1848年(嘉永元年)10月に新潟県常昌寺(燕市)の23世住職として亡くなった。生年月日は不明。常陸水戸藩第2藩主徳川光圀の実母久昌院の17回忌菩薩のため久昌寺を建立し、支院十方坊を設立。その支配に摩訶衍庵が建てられ、その16代住庵として久昌寺の法務を司った。また、僧侶の教育機関「三昧堂談林」の61世として、日蓮教学研鑽の任にあたった。のちに七会村修多羅寺の41世住職になり、桧山妙蓮寺の住職を兼務。妙蓮寺には遠利院日迂上人墓碑がある[16]

交通

編集
 
県道291号

下伊勢畑増井線(県道291号

東方に位置する二又橋から南進し檜山に通ずる県道。延長は4km[17]

橋梁

桧山大橋 - 鋼製・延長20.6m・幅員3.6m[18]

脚注

編集

出典

編集
  1. ^ 住所表記 | 常陸大宮市公式ホームページ”. www.city.hitachiomiya.lg.jp. 2022年11月18日閲覧。
  2. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、69頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  3. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、86-87頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  4. ^ a b 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、98頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  5. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、116,121頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  6. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、121頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  7. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、182頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  8. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、227頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  9. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、252頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  10. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、350頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  11. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、366頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  12. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、369頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  13. ^ 御前山村民俗調査グループ『ふるさとの民俗』東茨城郡御前山村教育委員会、御前山村 (茨城県)、1989年、24頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009147096-00 
  14. ^ 御前山村民俗調査グループ『ふるさとの民俗』東茨城郡御前山村教育委員会、御前山村 (茨城県)、1989年、39頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009147096-00 
  15. ^ 御前山村民俗調査グループ『ふるさとの民俗』東茨城郡御前山村教育委員会、御前山村 (茨城県)、1989年、64頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009147096-00 
  16. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、408頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  17. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、167頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 
  18. ^ 御前山村 (茨城県)『御前山村郷土誌』御前山村、御前山村 (茨城県)、1990年、175頁https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I030149883-00 

参考文献

編集
  • 『御前山村郷土誌』御前山村、1990年。
  • 『ふるさとの民俗』御前山村民俗調査グループ、御前山村、1989年。