樋口雅兼
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樋口 雅兼(ひぐち まさかね)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。豊臣氏の家臣。諱は政武とも。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 元和5年(1619年) |
別名 | 次郎、彦介、彦右衛門、政武 |
官位 | 淡路守 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼→堀尾忠晴 |
氏族 | 樋口氏 |
経歴
編集伯耆国海池村の出身[1]。天正5年(1577年)頃、羽柴秀吉の中国攻めに伴って臣従し、翌天正6年(1578年)、秀吉より100石を与えられた[2]。
翌天正7年(1579年)の三木城攻めでは羽柴秀長に属して戦い、敵将別所治定を討ち取る功を挙げて秀長より別に100石を与えられ、天正11年(1583年)8月16日、近江国神崎郡・蒲生郡・野洲郡のうち17,000石を加増された[1]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与したため所領を失い牢人となる。その後、大坂の陣では船奉行となり、木津川口の戦いでは蜂須賀至鎮の水軍を迎え撃った[3]。大坂落城後は堀尾忠晴に寄食した。元和5年(1619年)に死去[1]。