樊楫
樊 楫(はん しゅう、? - 1288年)は、モンゴル帝国(大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。東平府冠氏県の出身。
第三次ベトナム遠征にて主要な指揮官の一人として水軍を率いたが、白藤江の戦いで大敗を喫し殺されたことで知られる。
生涯
編集樊楫ははじめ軍吏となったが、参政のエリク・カヤ指揮下での鄂州・江陵攻めに功績があり、都事に任じられた。南宋平定後には員外郎に改められ、広西地方の平定に功績を挙げて郎中に昇格となった。また崖山の戦いにも従軍して功績を挙げ、参議行中書省事・同知湖南宣慰司事の地位を得た。1284年(至元21年)には僉荊湖占城行中書省事に任命されてエリク・カヤの指揮下で第二次ベトナム遠征に従軍したが、遠征は失敗に終わり功なくして帰還した[1]。
1287年(至元24年)より第三次ベトナム遠征に再び従軍することとなり、征交趾行尚書省の參知政事に任命されて総司令である鎮南王トガンの指揮下に入った[2][3]。第三次ベトナム遠征軍は三つの軍団に別れて進軍し、樊楫はウマルとともに水軍1万8千を率い、11月11日に欽州を発して海路より大越国に向かった[4]。同年11月11日、樊楫・ウマル率いる水軍は万寧(現在のクアンニン省モンカイ市ヴァンニン社)に現れ、玉山双門・安邦口(『元史』安南伝)や浪山(『安南志略』)などの地で大越国軍を破った[5][6][7]。一方、大越国側で編纂された『大越史記全書』によると11月28日に多某湾なる地で大越国軍がモンゴル側の水軍に勝利を収めたと記されるが[8]、これは『安南志略』で「勝利後、後方の輸送船が攻撃を受けて失われた」と記される記述に連動するのではないかと見られる[9]。
その後、樊楫・ウマルらは要衝の万劫(現在のハイズオン省チーリン市)にて鎮南王トガン率いる本隊と合流し[10]、万劫の占領後は再び水軍を率いて国都の昇龍に向け進軍し、同年末までに昇龍を占領した[11]。1288年(至元25年)正月、鎮南王トガンらは逃走した大越国の仁宗陳日燇を追って敢喃堡まで至ったものの、仁宗は海上に逃れてモンゴル軍の追撃を振り切った[12]。モンゴル軍は国都一帯を占領したものの、大越国の住民が食糧を隠したことによって食糧不足に陥ってしまい、同年2月には全軍を挙げて撤退することが決められた[13]。しかし、モンゴル軍は白藤江にて大越国に捕捉され、樊楫・ウマルらは大越国水軍に包囲されて大敗を喫した(白藤江の戦い (1288年))[14]。『元史』樊楫伝によると、負傷した樊楫は水中に身を投げるも、大越国兵に引き上げられた上で、毒殺されたという[15]。大越国側の史料である『大越史記全書』にも3月17日に樊楫を捕虜としたとの記述がある[16]。第三次ベトナム遠征に従軍した諸軍の内、陸軍は帰還した将兵の記録があるのに対し、樊楫・ウマルらが率いた水軍に属する将兵の帰還はほとんど記録がなく、水軍は特に白藤江の戦いで壊滅的打撃を受けたようである[17]。
脚注
編集- ^ 『元史』巻166列伝53樊楫伝,「樊楫、冠州人。初為軍吏、従参政阿里海牙下鄂・江陵有功、以行省命為都事。宋平、従入朝、改員外郎。従定広西、陞郎中。従攻崖山、進参議行中書省事・同知湖南宣慰司事。二十一年、擢僉荊湖占城行中書省事。従阿里海牙征交趾、無功而還」
- ^ 山本1950,213-215頁
- ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十四年春正月]辛卯……詔発江淮・江西・湖広三省蒙古・漢券軍、及雲南兵、及海外四州黎兵、命海道運糧万戸張文虎等運糧十七万石、分道以討交趾。置征交趾行尚書省、奥魯赤平章政事、烏馬児・樊楫参知政事総之、並受鎮南王節制」
- ^ 山本1950,220頁
- ^ 山本1950,220頁
- ^ 『元史』巻209列伝96外夷2安南伝,「[至元二十四年]十一月、鎮南王次思明、留兵二千五百人命万戸賀祉統之、以守輜重。程鵬飛・孛羅合答児以漢券兵万人由西道永平、奥魯赤以万人従鎮南王由東道女児関以進。阿八赤以万人為前鋒、烏馬児・樊楫以兵由海道、経玉山双門・安邦口、遇交趾船四百餘艘、撃之、斬首四千餘級、生擒百餘人、奪其舟百艘、遂趨交趾」
- ^ 『安南志略』巻4征討運餉,「[至元乙丑]十一月十一日戊戌、舟師先進、経万寧水口、彼将仁徳侯陳璇、伏兵浪山、将断我後、覚之即夜囲山、乗月撃走、弱死者衆数百人、獲船数十艘。烏馬児乗勝前駆、不顧糧船居後、失援糧陥。二十三日庚戌、陸師至禄州分道、右丞程鵬飛・参政孛羅合答児由支陵隘、王大軍由可利隘、右丞阿八赤先鋒並進、右丞愛魯亦自雲南進兵至三大江、与弟陳日燏戦、擒其将何映・黎石」
- ^ 『大越史記全書』巻5陳紀仁宗皇帝,「[丁亥三年十一月]二十八日、判首上位仁徳侯璇以舟師戦于多某湾。賊溺死甚衆、獲四十人及舟船・馬匹・器械以献」
- ^ 山本1950,220-221頁
- ^ 山本1950,224頁
- ^ 山本1950,228-230頁
- ^ 山本1950,235頁
- ^ 山本1950,235/240頁
- ^ 山本1950,240頁
- ^ 『元史』巻166列伝53樊楫伝,「二十四年、復征交趾、進行中書省参知政事。時三道進兵、皇子鎮南王与右丞程鵬飛分二道、一入永平、一入女児関。楫与参政烏馬児将舟師入海、与賊舟遇安邦口、楫撃之、斬首四千餘級、及生擒百餘人、獲船百餘艘・兵仗無算、遂至万劫、合鎮南王兵。十二月、進攻交趾、陳日烜棄城走敢喃堡。二十五年正月、王攻敢喃堡、破之、日烜走入海中。交人皆匿其粟而逃、張文虎餽餉不至。二月、天暑、食且尽、於是王命班師。楫与烏馬児将舟師還、為賊邀遮白藤江。潮下、楫舟膠、賊舟大集、矢下如雨、力戦、自卯至酉、楫被創、投水中、賊鉤執毒殺之。至順元年、贈推忠宣力効節功臣・資徳大夫・江浙行省右丞・上党郡公、諡忠定」
- ^ 山本1950,248-249頁
- ^ 山本1950,245頁