エリク・カヤモンゴル語: Ariq Qaya1227年 - 1286年)は、モンゴル帝国及び大元ウルスに仕えたウイグル人将軍の一人。『元史』などの漢文史料における漢字表記は阿里海牙(ālǐhǎiyá)。南宋平定において総司令バヤン、副司令アジュに次ぐ最高指揮官の一人としてモンゴル軍を指揮し、主に湖広地方の平定を行ったことで知られる。

概要

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エリク・カヤは貧しい家の出自の上、父が不明のため棄てられかけるという不幸な生い立ちであったが、「大丈夫たるもの朝廷に仕えて功績を立てるべきである」と言って「国書(ウイグル字本)」を学び研鑽を積んだ。その内、周囲の者の推薦によってエリク・カヤはクビライに仕えるようになり、更にクビライが第5代カーンに即位すると、参議中書省事、次いで僉河南行省事に抜擢された[1]

至元5年(1268年)、エリク・カヤは元帥アジュらとともに襄陽を攻略するよう命じられたが、確実な勝利を目指すクビライは力攻めを避けるよう命じ、襄陽城の包囲は5年にも及んだ(襄陽・樊城の戦い)。至元9年(1272年)に至り、エリク・カヤは襄陽に隣接する樊城こそは歯を守る唇のようなものであり、襄陽攻略のためまず最初に樊城を攻めるべきであると献策し、これにクビライが許可を出した。至元10年(1273年)、マンジャニーク砲の投入によって遂に樊城の城門は破られ、樊城は陥落した。この時、襄陽の城兵は浮橋を使って樊城を救援しようとしたが、エリク・カヤはこの浮橋を焼くことで両軍の連携を断ち勝利に貢献したという。樊城の陥落後、次ぎに攻撃を受けた襄陽は既にモンゴル軍の攻撃を支えることはできず、ほどなくして襄陽城も陥落した。エリク・カヤは襄陽の守将呂文煥に向けてモンゴルに投降すれば必ずや厚遇されるだろうと説得し、また矢を折って自らの言に違わないことを誓ったことで、遂に呂文煥はモンゴルへの投降を決意した。これを受けたクビライはエリク・カヤの約束通り呂文煥を「昭勇大将軍・侍衛親軍都指揮使・襄漢大都督」に任じて大いに厚遇し、エリク・カヤも襄陽・樊城攻めの功績を認められて荊湖等路枢密院事とされた。襄陽の陥落後、アジュとエリク・カヤは勢いに乗じて一気呵成に南宋を攻略してしまうべきであると上奏し、これを受けたクビライは史天沢に相談の上バヤンを総司令官に任じ、江南への進攻を命じた[2]

至元11年(1274年)9月、襄陽に集結した南宋遠征軍は遂に進軍を開始し、郢州・沙洋・新城を経て同年末には要衝の鄂州を陥落させた。鄂州において南宋遠征軍の諸将は改めて今後の方針を協議し、鄂州を南宋攻略の後方基地とするため、エリク・カヤを4万の軍とともに鄂州に残しバヤン・アジュの2名が本軍を率いて南宋の首都臨安を攻略することが決められた。エリク・カヤは配下の軍団に厳しく掠奪を禁じたため現地の住民は喜び、寿昌・信陽・徳安などの諸城は進んでエリク・カヤのモンゴル軍に投降した。更にエリク・カヤは至元12年(1275年)3月に岳州を、同年4月には江陵をそれぞれ攻略し、遂に荊南一帯を平定した。この報告を聞いたクビライは「バヤンがエリク・カヤのみを残して東進したと聞いた時は[鄂州の守りを]心配したが、荊南が平定されたとすれば我が兵が後背を気にする必要はもうない」と語って大いに喜び、宴会を3日にわたって開いた上、自らエリク・カヤを褒賞する詔を出した[3]

鄂州の平定を成功させたエリク・カヤは更に湖南に南下し、この地方の中心地潭州に迫った。エリク・カヤは降伏勧告をしたものの潭州の城兵は徹底抗戦を選び、エリク・カヤ自身が流れ矢を受けるほどの激戦の末潭州は陥落した。潭州が陥落した時、諸将は城民を皆殺しすべきであると主張したが、エリク・カヤはそれでは総司令バヤンの示した「不殺の意」に背くとして認めず、食料庫を開いて飢餓にある城民を救った[4]。なお、『元史新編』や『乾隆長沙府志』といった後世の編纂物の中にはこの潭州攻略時に数万人の大虐殺が行われたとする記述があるが、これらの編纂物の著者は潭州一帯の出身者で、モンゴル軍による被害を誇張して述べたものに過ぎないと屠寄によって指摘されている。

潭州の陥落に加え、同じ頃にバヤンら率いる本軍によって南宋の首都臨安が陥落した事によって湖広一帯の諸城は次々と降伏したが、唯一静江のみがモンゴルへの投降を拒んでいた。静江はエリク・カヤが何度か派遣した使者を殺害して徹底抗戦を表明したため、エリク・カヤは静江城の水の手を断って攻め、追い詰められた城民は自ら火を放って自殺した。エリク・カヤは静江の民は潭州の時と違ってモンゴルへの叛意が顕わで、これを放置しては広西の諸州を服属させることはできないとし、そのほとんどを穴埋めにして未だ服属していない諸州への見せしめとした。これを受けて広西一帯の諸州は雪崩を打って投降し、遂に広西一帯も平定された[5]

その後もエリク・カヤは雷州半島海南島の平定に従事し、湖広や広西一帯の反モンゴル運動を鎮圧した。南宋の平定後もエリク・カヤは湖広や広西一帯に絶大な影響力を有していた。至元23年(1286年)、入朝して光禄大夫・湖広行省左丞が加わったが、まもなく60歳で死去。開府儀同三司上柱国を追贈され、楚国公に封じられ、武定とされた。至正8年(1348年)、江陵王に追封されている[6]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻128列伝15阿里海牙伝,「阿里海牙、畏吾児人也。初生、胞中剖而出。其父以為不祥、将棄之、母不忍。比長、果聡辨、有膽略。家貧、嘗躬耕、舎耒嘆曰『大丈夫当立功朝廷、何至效細民事畎畝乎』。去、求其国書読之、逾月、又棄去。用薦者得事世祖於潜邸。世祖即位、漸見擢用、由左右司郎中遷参議中書省事。至元二年、立諸路行中書省、進僉河南行省事」
  2. ^ 『元史』巻128列伝15阿里海牙伝,「五年、命与元帥阿朮・劉整取襄陽、又加参知政事。始、帝遣諸将、命毋攻城、但囲之、以俟其自降。乃築長囲、起万山、包百丈・楚山、尽鹿門、以絶之。宋兵入援者皆敗去。然城中糧儲多、囲之五年、終不下。九年三月、破樊城外郛、其将復閉内城守。阿里海牙以為襄陽之有樊城、猶歯之有脣也、宜先攻樊城、樊城下、則襄陽可不攻而得。乃入奏。帝始報可。会有西域人亦思馬因献新砲法、因以其人来軍中。十年正月、為砲攻樊、破之。先是、宋兵為浮橋以通襄陽之援、阿里海牙発水軍焚其橋、襄援不至、城乃抜。詳具『阿朮伝』。阿里海牙既破樊、移其攻具以向襄陽。一砲中其譙楼、声如雷霆、震城中。城中洶洶、諸将多逾城降者。劉整欲立碎其城、執文煥以快其意。阿里海牙独不欲攻、乃身至城下、与文煥語曰『君以孤軍城守者数年、今飛鳥路絶、主上深嘉汝忠。若降、則尊官厚禄可必得、決不殺汝也』。文煥狐疑未決。又折矢与之誓、如是者数四、文煥感而出降。遂与入朝。帝以文煥為昭勇大将軍・侍衛親軍都指揮使・襄漢大都督、阿里海牙行荊湖等路枢密院事、鎮襄陽。阿里海牙奏曰『襄陽自昔用武之地也、今天助順而克之、宜乗勝順流長駆、宋可必平』。平章阿朮亦賛其説。帝命丞相史天沢議之。天沢曰『朝廷若遣重臣、如丞相安童・同知枢密院事伯顔者一人、都督諸軍、則四海混同、可立待也』。帝曰『伯顔可』。乃大徴兵、拜伯顔為行中書省左丞相、阿朮為平章。阿里海牙進行省右丞、賞鈔二百錠」
  3. ^ 『元史』巻128列伝15阿里海牙伝,「十一年九月、会師襄陽、遂破郢州及沙洋・新城。十二月、師出沙蕪口。宋制置夏貴守諸隘、甚固。阿里海牙麾兵攻武磯堡、貴趨援之。阿朮遂以兵西渡青山磯、宋都統程鵬飛來迎戦、敗之江中。会貴兵亦敗走廬州、宣撫朱禩孫夜遁還江陵、知鄂州張晏然以城降、鵬飛以本軍降。伯顔与諸将会鄂城下、議曰『鄂襟山帯江、江南之要区也、且兵糧皆備。今蜀・江陵・岳・鄂皆未下、不以一大将鎮撫之、上流一動、則鄂非我有也』。乃以兵四万遣阿里海牙戍鄂、而与阿朮将大兵以東。阿里海牙集鄂民、宣上徳恵、禁将士毋侵掠。其下恐懼、無敢取民之菜者、民大悦。遣人徇寿昌・信陽・徳安諸郡、皆下。進徇江陵。十有二年春三月、与安撫高世傑兵遇巴陵、命張栄実搗其中堅、解汝楫率諸翼兵左右角之。世傑敗走、追降之於桃花灘。遂下岳州。四月、至沙市、城不下、縦火攻之、沙市立破、宣撫朱禩孫・制置高達恐即以城降。乃入江陵、釈系囚、放戍券軍、除其徭賦及法令之繁細者。伝檄郢・帰・峡・常徳・澧・随・辰・沅・靖・復・均・房・施・荊門及諸洞、無不降者。尽奏官其所降官、以兵守峡、籍其戸口財賦来上。帝喜、大宴三日、語近臣曰『伯顔兵東、阿里海牙以孤軍戍鄂、朕甚憂之。今荊南定、吾東兵可無後患矣』。乃親作手詔褒之、命右丞廉希憲守江陵、促阿里海牙急還鄂、且以沿江諸城新附者委之」
  4. ^ 『元史』巻128列伝15阿里海牙伝,「阿里海牙至鄂、招潭州守臣李芾、不聴。乃移兵長沙、抜湘陰。冬十月、至潭、為書射城中以示芾、曰『速下、以活州民、否則屠矣』。不答。乃決隍水、部分諸将、以砲攻之、破其木堡。流矢中胸、瘡甚、督戦益急、奪其城。潭人復作月城以相拒。凡攻七十日、大小数十戦。十有三年春正月、芾力屈、及転運使鍾蜚英・都統陳義皆自殺、其将劉孝忠以城降。諸将欲屠之、阿里海牙曰『是州生歯数百万口、若悉殺之、非上諭伯顔以曹彬不殺意也、其屈法生之』。復発倉以食饑者」
  5. ^ 『元史』巻128列伝15阿里海牙伝,「遣使徇郴・全・道・桂陽・永・衡・武岡・宝慶・袁・韶・南雄諸郡、其守臣皆率其民来迎、曰『聞丞相体皇帝好生之徳、毋殺虜、所過皆秋毫無犯、民今復見太平、各奉表来降』。丞相、称阿里海牙也。奏官其降官、皆如江陵。独宋経略使馬既守静江不下。使総管兪全等招之、皆為所殺。会宋主以国降、降手詔遣湘山僧宗勉諭既、既復殺之。阿里海牙又為書、以天命地利人心開既、許以広西大都督、反覆千餘言、終不聴。因入朝賀平宋、拜平章政事、使持詔如静江諭之。十一月、前兵至厳関、既守関弗納、破其兵、又敗都統馬応麒於小容江、遂逼静江。録上所賜静江詔以示既、既焚之、斬其使。静江以水為固、乃築堰断大陽・小容二江、以遏上流、決東南埭、以涸其隍、破其城。民聞城破、即縦火焚居室、多赴水死。既及其総制黄文政・総管張虎以残兵突囲走、執之。阿里海牙以静江民易叛、非潭比、不重刑之、則広西諸州不服、因悉坑之、斬既於市。分遣万戸脱温不花徇賓・融・柳・欽・橫・邕・慶遠、斉栄祖徇鬱林・貴・廉・象、脱鄰徇潯・容・藤・梧、皆下之。特磨王儂士貴・南丹州牧莫大秀、皆奉表求内附、奏官其降官如潭州。以兵戍静江・昭・賀・梧・邕・融、乃還潭」
  6. ^ 『元史』巻128列伝15阿里海牙伝,「既而宋二王称制海中、雷・瓊・全・永与潭属県之民文才喩・周隆・張虎・羅飛咸起兵応之、舒・黄・蘄相継亦起、大者衆数万、小者不下数千。詔命討之、且略地海外。阿里海牙既定才喩等、至雷州、使人諭瓊州安撫趙与珞降、不聴。遂自航大海五百里、執与珞・冉安国・黄之紀、皆裂殺之、尽定瓊南寧・万安・吉陽地。降八蕃羅甸蛮、以其総管龍文貌入見、置宣慰司。八蕃羅甸・臥龍・羅蕃・大龍・退蛮・盧蕃・小龍・石蕃・方蕃・洪蕃・程蕃、並置安撫以鎮之。十八年、奏請徙省鄂州。所定荊南・淮西・江西・海南・広西之地、凡得州五十八、峒夷山獠不可勝計。大率以口舌降之、未嘗專事殺戮。又其取民悉定従軽賦、民所在立祠祀之。二十三年、入朝、加光禄大夫・湖広行省左丞相;卒、年六十。贈開府儀同三司・上柱国、封楚国公、諡武定。至正八年、進封江陵王。子忽失海牙、湖広行中書省左丞;貫只哥、江西行中書省平章政事」

参考文献

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  • 植松正『元代江南政治社会史研究』汲古書院〈汲古叢書〉、1997年。ISBN 4762925101国立国会図書館書誌ID:000002623928 
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会〈東洋史研究叢刊; 65(新装版3)〉、2004年。ISBN 4876985227国立国会図書館書誌ID:000007302776https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007302776 
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 元史』巻128列伝15
  • 新元史』巻160列伝57
  • 蒙兀児史記』巻92列伝74
  • 国朝名臣事略』巻2丞相楚国武定公