楠木正時
南北朝時代の武将
楠木 正時(くすのき まさとき)は、南北朝時代の武将。楠木正成の次男で、正行の弟、正儀の兄。正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、四條畷の戦いで南朝軍の副将として戦い、総大将の兄と共に討死した。
時代 | 南北朝時代 |
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生誕 | 不明(伝・嘉暦2年(1327年) |
死没 | 正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日) |
別名 | 通称:次郎(『薩摩旧記』[1])、二郎(『尊卑分脈』[2]) |
官位 | 贈正四位[3] |
主君 | 後醍醐天皇→後村上天皇 |
氏族 | 楠木氏 |
父母 | 父:楠木正成、母:不明[注釈 1] |
兄弟 | 正行、正時、正儀 |
生涯
編集正平3年/貞和4年1月5日(1348年2月4日)、南朝の楠木正行と北朝の高師直の間で、四條畷の戦いが発生[1]。正行と共に弟も戦死した(『園太暦』『阿蘇文書』)[1]。諱は不明だが、その通称は「次郎」である(『薩摩旧記』)[1]。
一次史料から確実にわかるのは以上が全てであり、諱や享年すら不明である[5]。時代が近い二次史料としては、諱は洞院公定『尊卑分脈』から「正時」と確認することができる[2]。通称の漢字はこちらでは「二郎」となっている[2]。
なお、『観心寺文書』中に、正平4年8月29日付左衛門尉(花押)橋本九郎左衛門入道宛の書状および正平5年4月13日付左衛門尉(花押)観心寺寺僧宛の執達状があり、観心寺の寺伝はこれを正時のものと伝えているが、時期から言って実際は弟の楠木正儀のものである[5]。
明治22年(1889年)、四條畷神社が建立され、その祭神の一柱となった[6]。大正3年11月19日贈正四位[3][6]。
登場作品
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 藤原公定 編「橘氏系図」『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』 11巻、吉川弘文館、1903年。doi:10.11501/991593。NDLJP:991593 。
- 東京帝国文科大学史料編纂掛 編「正平3年/貞和4年1月5日条」『大日本史料 第六編之十一』東京帝国大学、1912年、279-330頁。doi:10.11501/782849。NDLJP:782849 。
- 藤田精一『楠氏研究』(増訂四)積善館、1938年。doi:10.11501/1915593。NDLJP:1915593 。
- 西尾和美「楠木正成の妻」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年。ISBN 978-4023400528 。