楊原神社
静岡県沼津市にある神社
楊原神社(やなぎはらじんじゃ)は、静岡県沼津市下香貫にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。
楊原神社 | |
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本社拝殿(左)と摂社吉田神社(右) | |
所在地 | 静岡県沼津市下香貫宮脇335 |
位置 | 北緯35度5分8.1秒 東経138度52分16.4秒 / 北緯35.085583度 東経138.871222度座標: 北緯35度5分8.1秒 東経138度52分16.4秒 / 北緯35.085583度 東経138.871222度 |
主祭神 | 大山祇命 |
社格等 |
式内社(名神大) 旧郷社 |
創建 | 不詳 |
例祭 | 1月17日 |
地図 |
祭神
編集主祭神
配祀神
歴史
編集概史
編集創建時期は不詳。戦国時代の現在地への遷座以前は沼津市楊原の場所(現在地の東南東500m)に鎮座していたという[2]。
国史の初見は、『日本三代実録』貞観元年1月17日条の従五位上の神階を授けられたという記述である。『延喜式』神名帳では伊豆国田方郡に「楊原神社 名神大」と記載され、田方郡唯一の名神大社に列している[3][注 1]。また『伊豆国神階帳』では「従一位 やきわらの明神」の記載も見える[3]。ただし現社地や旧社地(沼津市楊原)を含む狩野川左岸は、少なくとも近世以降は駿河国に属していたことから、この名神大社比定には疑問も呈されている[4]。これに関して、「楊原」の地名が残ること・周辺からの多数の遺跡出土状況等により当地に名神大社が祀られた合理性が認められることから、『延喜式』以後に駿河・伊豆の国境移動があったとする説がある[4]。
かつては上香貫村・下香貫村・善太夫神田・我入道を氏子区域とし、古くは「大宮大明神」「香貫大明神」「松彦大明神」とも呼ばれていたという[4]。戦国時代に北条氏・武田氏の兵火に遭って社殿ほかを焼失し、天正18年(1590年)に楊原の地から現在地に再建・遷座されたという[2]。当社は社領500石、別当8坊、社家30余りを有する大社であったと伝わる[4]。
明治8年(1875年)2月、近代社格制度において郷社に列した。
神階
編集境内
編集-
本殿
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拝殿
摂末社
編集摂社
編集- 吉田神社[5]
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- 例祭:10月14日
- 本社向かって右手に鎮座する。安政5年(1858年)の疫病流行において、その退散を願い京都の吉田神社から勧請された。初めは下香貫の掃除ヶ峰に祀られていたが、明治28年に境内に移された。
末社
編集関係社
編集- 大朝神社
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- 鎮座地:沼津市下香貫山宮前3056-2(北緯35度04分25.83秒 東経138度51分52.74秒 / 北緯35.0738417度 東経138.8646500度)
- 祭神:大日孁命(おおひるめのみこと)
- 社格:式内社「大朝神社」論社、旧村社
- 例祭:1月16日
- 「おおあさじんじゃ」。楊原神社から南西に約1.5km、海に面した牛臥山の南麓に鎮座する。楊原神社とは祭祀の母体・内容とも共有しており、一体の存在と考えられている[4]。古くは楊原神社との間には浅瀬が広がっていたと想定され、当社は海に浮かぶ小島に祀られた山宮であったと考えられている[4]。なお式内社「大朝神社」の比定社は、当社ではなく大宮神社(伊豆市上白岩)が有力視される[4]。
祭事
編集現地情報
編集所在地
交通アクセス
脚注
編集注釈
編集- ^ なお、流布本では当社が名神大社として記載されるが、九条家本では当社に替えて意波与命神社を名神大社としている(『静岡県の歴史』(山川出版社)p. 50)。
出典
編集参考文献
編集- 神社由緒書
- 秋山章纂修、萩原正平増訂 編『増訂豆州志稿 巻八上』。
- 『増訂増訂豆州志稿 巻八上』 (PDF) (早稲田大学図書館)参照。
- 明治神社誌料編纂所編 編「楊原神社」『府県郷社明治神社誌料』明治神社誌料編纂所、1912年。
- 『明治神社誌料 府県郷社 上』(国立国会図書館デジタルコレクション)901-902コマ参照。
- 三島市誌編纂委員会編 編『三島市誌 下』三島市、1983年。
- 「下香貫村」『日本歴史地名体系 22 静岡県の地名』平凡社、2000年。ISBN 4582490220。
- 神野善治 著「楊原神社・大朝神社」、谷川健一編 編『日本の神々 -神社と聖地- 10 東海』白水社、1987年。ISBN 4560022208。
関連項目
編集- ウィキメディア・コモンズには、楊原神社に関するカテゴリがあります。
外部リンク
編集- 楊原神社 - 静岡県神社庁