森頼定
鎌倉時代の武将。若槻頼隆の次男。美濃森氏の祖・初代。相模毛利庄。安嘉門院判官代。正五位下、伊豆守、左衛門尉。子に森義泰(太郎)-森義持-森義清-森義信、森頼泰、森泰朝、森義定
源頼定/森 頼定(みなもと の よりさだ/もり よりさだ)は、鎌倉時代の武将。鎌倉幕府御家人で源義家の孫にあたる若槻頼隆の次男。若槻氏、森氏の祖。『吾妻鏡』には「伊豆左衛門尉頼定」の名で登場する。
時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 治承3年(1179年) |
死没 | 康元2年1月13日(1257年1月29日) |
別名 | 若槻頼定 |
官位 | 正五位下、伊豆守、左衛門尉 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源実朝 |
氏族 | 河内源氏義隆流若槻氏→森氏 |
父母 | 父:源頼隆 |
兄弟 | 頼胤、頼定、光広、親光、経光、吉祥丸 |
妻 | 村上信村の娘[1] |
子 | 義泰、定氏、頼泰、上野朝氏、泰朝、義定、頼明、戸田信義、義通、若槻頼仲? |
人物
編集父より相模国毛利荘を継承して森姓を称し、安嘉門院判官代などを務めた。建保2年(1214年)7月の源実朝の大慈寺供養、同年(1216年)6月の左大将拝賀による鶴岡八幡宮参詣と、承久元年(1219年)正月の右大臣拝賀による再参詣、同年7月の三寅(のちの4代将軍藤原頼経)の鎌倉下向、嘉禎3年(1237年)8月の鶴岡八幡宮参詣、同4年(1238年)2月の上洛、延應元年(1239年)8月の放生会などにおいて随兵を務める。康元2年(1257年)1月13日、79歳で死去[2]。
子孫には織田信長の家臣である森可成、長可、成利、忠政らの他、讃岐国の豪族となった家系が派生したともいうが、忠政を祖とする近世大名の家系は仮冒とする説もある。