梅素亭玄魚
梅素亭 玄魚(ばいそてい げんぎょ、文化14年(1817年)‐明治13年(1880年)2月7日)は、江戸時代から明治時代にかけての浮世絵師。
来歴
編集姓は宮城、俗称は喜三郎。梅素亭、玄魚、整軒、楓園、蝌蚪子、水仙子、小井居、樗堂、呂成、楓阿弥と号している。父の宮城貞雄は号を喜斎玄魚といい、本石町4丁目の大経師で、岸本由豆流(ゆずる)に国学を学んでいた。この喜斎玄魚の長男。15歳から20歳までを浅草諏訪町で書画骨董商をする金子吉兵衛方ですごし、後に筆耕を生業とした。もともと師はなく、独学によって絵を習得、『浮世絵師伝』によると弘化年間から作画を始めたとされ、安政のころから主に合巻、シリーズ物の錦絵の袋絵や目録図様、千社札、摺物の図案などに独自の機知製をおびた意匠の才能を発揮しており、ビラ絵の名手と称せられた[注釈 1]。なお、安政2年(1855年)の大地震の際には鯰絵を考案して好評を得たといわれ、慶応ころまで活躍している。
仮名垣魯文ら三題噺の愛好家の集まり粋狂連の一員であったほか[2]、芝居を好み、「団十郎老爺」と戯号して六二連の幹事を務めた[3][4]。六二連は、芝居小屋の土間6側目の2を定位置に観劇する見巧者(芝居通)の集まりで、玄魚のほか、高須高燕や富田砂燕が中心となって劇評し、1878年には『俳優評判記』を刊行した[2]。六二連の人々は「江戸時代の通人を明治の世に生き延びさせたような人たち」と言われた[2]。
浅草黒船町の自宅が火災で焼け、両国吉川町に仮住まいをしていたが、1880年に病気で死去[3]。天王寺 (台東区)に眠る。死後、魯文は雑誌に追悼文「梅素小伝」を発表した[2]。玄魚は気付け薬「宝丹」の販売元として知られる守田治兵衛とも親しかった[2]。
家族
編集玄魚の子に梅素薫がいる。
宮城喜三郎を襲名した子が、明治11年(1878年)に「梅素亭 宮城商店」を浅草区三好町に開店(のち同区黒船町厩橋に移転)、化粧品の「名題洗粉」を売り物とした[5][6]。この洗い粉は「楽屋つかい名題洗粉」として明治期には知らぬ者のない人気商品となり、大正期には昔ながらの豆粉を原料とする唯一の商品として洗粉の代名詞とも言われた[7][8]。店先には玄魚の看板を掲げていた。
その後家業廃業し、次代の宮城喜三郎(1891年生、宮城惣吉三男)は東京高等工業学校電気科を卒業し、芝浦製作所に勤務、田園調布に暮らしテニスを趣味とし、その長女宮城黎子、長男宮城淳は著名なテニスプレーヤーとなった[5][9]。
作品
編集注釈
編集脚注
編集- ^ 野崎左文『増補私の見た明治文壇1』平凡社、2007年、136p頁。
- ^ a b c d e 六二連『俳優評判記』の位置--新しい劇評媒体群のなかで池山晃、日本文学研究 (43), 40-49, 2004-02、大東文化大学
- ^ a b 梅素玄魚『浮世絵備考』梅本鐘太郎 (塵山) 編 (東陽堂, 1898)、p122
- ^ 六二連コトバンク
- ^ a b 『江戶ッ子百話(上)』能美金之助、三一書房, 1972年、p227-228
- ^ 東京勧業博覧会歯科出品物の審査結果 第2報 歯磨および歯ブラシについて大橋正敬[他]日本歯科医史学会会誌 1992-12-25
- ^ 梅素亭『東京新繁昌記』金子佐平 (春夢) 編 (東京新繁昌記発行所, 1897)
- ^ 洗粉『東京商品. 第1輯』高洲豊水 編 (優良商品文庫編輯所, 1918)
- ^ 宮城喜三郎『大衆人事録. 第12版 東京篇』帝国秘密探偵社、1938年、p657
参考図書
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 梅素亭玄魚浮世絵文献資料館
- 「東京自慢名物会 梅素亭 宮城 名題洗粉」豊原国周、1897