梅叔鸞
梅 叔鸞(ばい しゅくらん[1]、マイ・トゥック・ロアン[2]、ベトナム語:Mai Thúc Loan / 梅叔鸞)は、唐代の安南の反乱指導者。ベトナム史において唐に抵抗した人物として名を残している。『旧唐書』では梅 玄成(マイ・フイエン・タイン、ベトナム語:Mai Huyền Thành / 梅玄成)と記される[3]。黒帝を自称した[2][4]ため梅黒帝(マイ・ハック・デ、ベトナム語:Mai Hắc Đế / 梅黑帝)とも史称される。
黒帝 梅叔鸞 | |
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代皇帝 | |
在位期間 | 722年 |
都城 | 万安城 |
姓・諱 | 梅叔鸞 |
諡号 | 黒帝 |
生年 | 不詳 |
没年 | 開元10年(722年) |
生涯
編集枚埠地方(現在のハティン省ロックハ県マイフー社)の貧家に生まれ、後に驩州の玉征(現在のゲアン省ナムダン県)に移った。長期にわたる肉体労働のため、四肢は頑健、肌の色は浅黒くなったという。
武徳7年(624年)に唐が交州都護府を設置して以降、当時の安南は唐に隷属する期間が続いた。貢租賦役の負担は重く、現地の人々の唐に対する鬱積は蓄積していた。開元10年(722年)、官貢品の茘枝を輸送中に農民の不満は頂点に達し、これを機に梅叔鸞は沙南を根拠地として武装蜂起し、唐に対して不満を持っていた多くの農民がこれに加わった。後に藍江沿いの衛山付近(現在のナムダン県ヴァンディエン社)に万安城を建て、帝を称して[4]ここに都を置いた。梅叔鸞は、驩州都督府や山岳部の少数民族の酋長、また隣国の林邑や真臘と連携し[4]、北上して安南都護府の治所があった宋平を攻め落とした。これによって安南は唐の支配から一時脱した。
その後、宋之悌(宋之問の弟)の拠る驩州[5]を包囲中に、楊思勗を司令官とする十万の唐軍の攻撃を受けて大敗し、宋平を奪回されて紅河デルタから藍江沿いの森に転戦したが、万安城も陥とされ、梅叔鸞は戦死した[注 1]。残党は梅叔鸞の三男の梅叔輝を擁立した(梅少帝)が、翌開元11年(723年)に唐軍に捕らえられて殺された。その後、梅叔輝の双子の兄弟の梅奇山が後を継ぐ(白頭帝)が、梅奇山も同年に戦いで毒を受けて死亡したという。
脚注
編集注釈
編集- ^ 『旧唐書』では捕らえられた上で処刑されたとする。