梅原修平
梅原 修平(うめはら しゅうへい、1837年(天保8年3月[1]) - 1910年(明治43年)1月28日[1][2])は幕末から明治時代の政治家、銀行家。貴族院多額納税者議員。別名・太郎兵衛[3]、諱は経忠、号は王渓[4]。
経歴
編集相模国大住郡尾尻村(南秦野村、南秦野町を経て現秦野市)の名主で醸造業を営む梅原太兵衛の子[4]。林靏梁に漢学を、武蔵町田の小沢安斎から和学を、平戸の萩原太郎に剣術を学び、昌平坂学問所でも学んだ[2][3]。邸内に道場を設け、青少年に剣術と和漢学を教えた[2][3]。名主役、戸長を経て[1]、大住、淘綾両郡の区長を務めた[4]。ほか、南秦野村会議員[1]、神奈川県農工銀行、共伸社[3]各頭取を務めた[4]。
1890年(明治23年)神奈川県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日[5]から1897年(明治30年)9月28日まで在任した[1]。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第1』大蔵省印刷局、1960年 。
- 神奈川県県民部県史編集室編『神奈川県史 別編1』人物 : 神奈川県歴史人名事典、神奈川県、1983年。
- 竹内理三ほか 編纂『神奈川県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典14、角川書店、1993年。ISBN 4040021401。
- 大畑哲『かながわ自由民権探索』夢工房、2008年。