柳谷謙介
柳谷 謙介(やなぎや けんすけ、1924年〈大正13年〉6月19日[1] - 2017年〈平成29年〉11月18日[2][3])は、日本の外交官。
柳谷 謙介 やなぎや けんすけ | |
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生年月日 | 1924年6月19日[1] |
出生地 | 日本・東京府[2] |
没年月日 | 2017年11月18日(93歳没)[2][3] |
死没地 | 日本・静岡県賀茂郡東伊豆町[2] |
出身校 |
成城高等学校 東京大学法学部 |
称号 | 従三位[4] |
第21代 外務事務次官 | |
在任期間 | 1985年1月29日[5] - 1987年6月30日[6] |
在任期間 | 1982年10月15日[7] - 1985年1月29日[5] |
外務審議官(政務担当) | |
在任期間 | 1981年9月16日[8] - 1982年10月15日[9] |
在任期間 | 1980年1月22日[10] - 1981年9月16日[8] |
外務省アジア局長 | |
在任期間 | 1978年11月2日[11] - 1980年1月22日[10] |
その他の職歴 | |
外務省大臣官房審議官 (1978年1月24日[12] - 1978年11月2日[11]) | |
外務省情報文化局長 (1976年1月22日[13] - 1978年1月24日[12]) |
外務事務次官(第21代)、オーストラリア国駐箚特命全権大使、外務審議官、外務省大臣官房長、外務省情報文化局長などを歴任した[2]。
来歴
編集東京府出身[2][14]。学生時代は学徒出陣ため海軍に召集され[14]、その後、東京大学法学部を卒業[14]。1948年(昭和23年)、外交官領事官採用試験に合格[15]。外務省入省後、フランス、パキスタン、イギリスなどで勤務し[16]、1959年(昭和34年)からは北東アジア課首席事務官を5年間務め、1965年(昭和40年)の日韓国交正常化への交渉を支えた[15]。1973年(昭和48年)7月からは在中華人民共和国日本国大使館公使を務め、日中漁業協定に仮調印した[14]。
1976年(昭和51年)1月22日、情報文化局長に就任[13]。
1978年(昭和53年)1月24日、外務省大臣官房審議官に就任[12]。
同年11月2日、アジア局長に就任[11]。アジア局長として対中国援助を手掛けた[15]。
1980年(昭和55年)1月22日、外務省大臣官房長に就任[10]。
1981年(昭和56年)9月16日、外務審議官に就任[8]。
1982年(昭和57年)10月15日、オーストラリア国駐箚特命全権大使に就任[7]。
1985年1月29日、外務事務次官に就任[5]。中曽根康弘首相(当時)による靖国神社参拝で日中関係が冷え込んだ際には、事務次官として対応にあたった[3]。
1987年(昭和62年)6月30日、定年退官[6]。同年7月から外務省顧問を務めた[17]。定年退官後の1988年(昭和63年)1月8日、国際協力事業団(JICA)総裁に就任[1][17]。総裁を1994年(平成6年)7月31日まで務め[1]、1991年(平成3年)に発生した、ペルーでJICA派遣の農業専門家3人が殺害された事件(以下、ワラル事件)では、総裁として対応にあたり[18]、衆議院の牧野隆守外務委員長(当時)らと共にワラル事件で亡くなった職員の遺児を支援するための育英基金を立ち上げ、募金を呼びかけた[19]。また、総裁在任中に皇太子徳仁親王(当時)と小和田雅子の婚約に一役買ったことで知られており、藤森昭一宮内庁長官(当時)の依頼を受けて、自身の後輩で雅子の父である小和田恆外務事務次官(当時)や雅子本人と接触するなど、仲人役を務めた[15]。この他、対外経済協力審議会委員[20]、東京都顧問[21]などを務めた。
1998年(平成9年)1月13日、学校法人成城学園理事長に就任[22]。2001年(平成13年)5月25日まで務めた[22]。
2017年(平成29年)11月18日、急性肺炎のため、静岡県賀茂郡東伊豆町の医療施設で死去[2]。同日付で従三位に叙された[4]。
脚注
編集出典
編集- ^ a b c d “衆議院議員中川秀直君提出天下り・渡りに関する質問に対する答弁書 十一について”. 衆議院ホームページ. 衆議院事務局庶務部広報課 (2010年2月26日). 2024年7月26日閲覧。
- ^ a b c d e f g “[訃報]/柳谷謙介さん/元外務事務次官”. 沖縄タイムスプラス (沖縄タイムス社). (2017年11月21日) 2024年7月26日閲覧。
- ^ a b c “元外務事務次官、柳谷謙介氏が死去 93歳”. 産経ニュース (産業経済新聞社). (2017年11月20日). オリジナルの2017年11月20日時点におけるアーカイブ。 2024年7月26日閲覧。
- ^ a b 『官報 平成29年本紙第7171号9頁 叙位・叙勲』(プレスリリース)国立印刷局、2017年12月25日。
- ^ a b c 『官報 昭和60年本紙第17392号13頁 人事異動 内閣 , 外務省』(プレスリリース)国立印刷局、1985年1月31日。
- ^ a b 『官報 昭和62年本紙第18110号5頁 人事異動 外務省』(プレスリリース)国立印刷局、1987年7月2日。
- ^ a b 『官報 昭和57年本紙第16715号11頁 人事異動 外務省』(プレスリリース)国立印刷局、1982年10月18日。
- ^ a b c 『官報 昭和56年本紙第16395号12頁 人事異動 外務省』(プレスリリース)国立印刷局、1981年9月18日。
- ^ 『官報 昭和57年本紙第16716号13頁 人事異動 内閣』(プレスリリース)国立印刷局、1982年10月19日。
- ^ a b c 『官報 昭和55年本紙第15901号6頁 人事異動 外務省』(プレスリリース)国立印刷局、1980年1月24日。
- ^ a b c 『官報 昭和53年本紙第15544号12頁 人事異動 外務省』(プレスリリース)国立印刷局、1978年11月7日。
- ^ a b c 『官報 昭和53年本紙第15309号7頁 人事異動 外務省』(プレスリリース)国立印刷局、1978年1月26日。
- ^ a b 『官報 昭和51年本紙第14713号13頁 人事異動 外務省』(プレスリリース)国立印刷局、1976年1月24日。
- ^ a b c d 「日中漁業協定に仮調印した北京駐在公使 柳谷謙介 ひと」『朝日新聞』朝日新聞社、1975年8月6日、3面。
- ^ a b c d “(追想録)柳谷謙介さん 元外務次官 戦後アジア外交支える”. 日本経済新聞電子版 (日本経済新聞社). (2018年1月5日) 2024年7月26日閲覧。
- ^ 「柳谷謙介さん 「平和・軍縮の年」に外務次官になった(ひと)」『朝日新聞』朝日新聞社、1985年1月30日、3面。
- ^ a b 「国際協力事業団の総裁に柳谷謙介氏を起用」『朝日新聞』朝日新聞社、1988年1月8日、2面。
- ^ 「JICA、一部隊員引き揚げも ペルーの惨事で総裁が表明」『朝日新聞』朝日新聞社、1991年7月16日、15面。
- ^ 「JICA総裁の柳谷謙介さん 遺児支援募る(人きのうきょう)」『朝日新聞』朝日新聞社、1991年8月27日、2面。
- ^ 「総理府人事(23日付)」『朝日新聞』朝日新聞社、1988年3月23日、2面。
- ^ 「都顧問に9人選任、横田氏ら9人 東京」『朝日新聞』朝日新聞社、1992年1月31日、0面。
- ^ a b “歴代理事長・学園長 一覧”. 学校法人成城学園. 2024年7月27日閲覧。
公職 | ||
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先代 松永信雄 |
外務事務次官 第21代:1985年 - 1987年 |
次代 村田良平 |
先代 黒田瑞夫 |
オーストラリア国駐箚特命全権大使 1982年 - 1985年 |
次代 中島敏次郎 |
先代 鹿取泰衛 |
外務審議官(政務担当) 1981年 - 1982年 |
次代 中島敏次郎 |
先代 山崎敏夫 |
外務省大臣官房長 1980年 - 1981年 |
次代 伊達宗起 |
先代 中江要介 |
外務省アジア局長 1978年 - 1980年 |
次代 木内昭胤 |
先代 山崎敏夫 |
外務省大臣官房審議官 1978年 |
次代 中江要介 |
先代 黒田瑞夫 |
外務省情報文化局長 1976年 - 1978年 |
次代 加賀美秀夫 |