柏木吉三郎
柏木 吉三郎(かしわぎ きちさぶろう、寛政11年(1799年) - 明治16年(1883年)以降)は、江戸時代の植木屋、本草学者。通称は吉三、橘三とも[1]。名は富潤、義党[2]。号は花園亭[1]。江戸業平橋、駒込で植木屋を営み、一時期医学館、蕃書調所にも勤務した。
生涯
編集江戸時代
編集寛政11年(1799年)浅見喜寿の子として生まれ、文政後期兄喜康と共に植木屋柏木富長の養子となり、巣鴨本村から本所業平橋に移り[1]、喜康と共に小野蕙畝に本草学を学んだ[2]。
天保10年(1839年)には医学館の薬品会に出席したほか[3]、嘉永元年(1848年)内山卯之吉と黒田斉清に植物鑑定を依頼するなど、飯室楽圃、前田利保等赭鞭会員とも交流を持ちながら本草学的思考を培った[4]。
嘉永2年(1849年)には医学館番町薬園に住み込みで勤務しており[5]、文久2年(1862年)伊藤圭介により蕃書調所物産方に引き抜かれ、駒込目赤不動前に移った[6]。
明治時代
編集維新後も明治5年(1872年)74歳で田端与楽寺から道灌山まで採薬に出かけるなど、精力的に活動を続けた[7]。明治9年(1876年)刊『東都高名鏡』には「鉢物師」として見え、住所は「駒込内海」(駒込浅嘉町)となっている[6]。
明治11年(1878年)から栗本鋤雲が主幹した温知会に度々参加し、植物を出品した[8]。明治12年(1879年)解散後も交流を続け、明治15年(1882年)11月13日には植木屋、本草家9名で開いた尚歯会に出席している[8]。
没年については、明治16年(1883年)8月85歳で写生したヤマシロノキク図があるため、少なくともこれ以降である[9]。
なお、門人大谷木醇堂の『醇堂漫筆』に「88歳で明治15年に没した」「明治初年88歳で没し、内山長太郎が大きく嘆息した」旨の記述があるが、明治15年(1882年)は誤りであり、仮に「88歳」に信を置いて明治19年(1886年)没とした場合、長太郎が明治16年(1883年)に没したことと矛盾する[9]。
著作
編集- 『草木名鑑』
- 「倭種洋名鑑」 - 慶応2年(1866年)写[10]。
- 「漢名手引草紙」 - 嘉永6年(1853年)8月写[10]。
- 「木花雑品録」[10]
- 「草木画下書」 - 嘉永2年(1849年)、安政3年(1856年)写[10]。
- 「薬草木写真下画」[10]
- 「百合異花芭蕉画」[10]
- 「花物真写図記」 - 嘉永元年(1848年)、文久元年(1861年)写[10]。
- 「本草綱目雑説記」 - 小野蘭山『本草綱目啓蒙』の誤りを批判し、自説を披露する[11]。
- 『採薬録』 - 天保13年(1842年)~明治3年(1870年)写[10]。
- 『本草書残欠』[12]
- 『草木雑品録』 - 高知県立牧野植物園所蔵。明治7年(1874年)~明治16年(1883年)写[10]。
- 『亜墨利加草類図』 - 高知県立牧野植物園所蔵。文政10年(1827年)、元治元年(1864年)写[10]。
命名した花戸名
編集開国後、植木屋等は舶来した植物に独自の名称を付け、その一部は和名として定着した。
柏木家
編集脚注
編集- ^ a b c 平野 2002, p. 42.
- ^ a b c d e f g h i 平野 2002, p. 40.
- ^ 平野 2002, p. 54.
- ^ 平野 2002, p. 45-46.
- ^ 平野 2002, p. 46.
- ^ a b 平野 2002, p. 55.
- ^ 平野 2002, p. 50.
- ^ a b 平野 2002, p. 62.
- ^ a b 平野 2002, p. 53.
- ^ a b c d e f g h i j k 平野 2002, p. 48.
- ^ 平野 2002, p. 47.
- ^ 平野 2002, pp. 48–49.
- ^ a b c 平野 2002, p. 51.
- ^ 平野 2002, p. 64.
- ^ 平野 2002, p. 41.
参考文献
編集- 平野恵「植木屋柏木吉三郎の本草学における業績」『Museum』第577号、東京国立博物館、2002年4月。