枝原百合一
枝原 百合一(えだはら ゆりかず、1881年7月1日[1] - 1944年6月28日)は、日本の海軍軍人。初代海軍航空工廠長。最終階級は海軍中将。
枝原 百合一 | |
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磐手艦長時代 | |
生誕 |
1881年7月1日 日本・山口県 |
死没 |
1944年6月28日 日本 |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1903年 - 1935年 |
最終階級 | 海軍中将 |
経歴
編集山口県出身。1903年(明治36年)12月、海軍兵学校(31期)を首席で卒業し、翌年9月、海軍少尉任官。日露戦争では「三笠」乗組として出征し、日本海海戦では「三笠」航海士であった。1906年(明治39年)8月、佐世保鎮守府付となり、「三笠」「水無月」の各乗組などを経て、海軍砲術学校高等科学生となり、優等で卒業。1913年(大正2年)12月、海軍少佐に昇進。
1915年(大正4年)5月、「敷島」砲術長に就任。以後、「鹿島」砲術長、軍令部参謀などを歴任し、1917年(大正6年)12月、海軍省副官兼海相秘書官となり、加藤友三郎大臣に仕えた。1918年(大正7年)12月、海軍中佐に進級。
1919年(大正8年)12月、第5戦隊参謀に就任。以後、第6戦隊司令部付、横須賀鎮守府付を経て、1922年(大正11年)3月、「千早」艦長に着任。軍令部参謀に転じ、同年12月、海軍大佐に昇進した。1923年(大正12年)5月、軍令部参謀(第3班第5課長)となり、以後、「大井」「磐手」の各艦長、軍令部出仕、「陸奥」艦長を歴任。1927年(昭和2年)12月、海軍少将に進級し霞ヶ浦海軍航空隊司令に就任した。
1929年(昭和4年)11月、第一航空戦隊司令官となり、以後、海軍航空本部出仕、横須賀鎮守府付、海軍航空廠長を歴任。1932年(昭和7年)12月、海軍中将となり、旅順要港部司令官(1933年〈昭和8年〉7月1日[2])、軍令部出仕(1934年〈昭和9年〉11月15日[3])を経て、1935年(昭和10年)3月25日に待命[4]、そして同年3月30日に予備役に編入された[5]。
※ 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』(芙蓉書房出版、1981年)106頁に記載されている枝原の略歴には「10・12・10待命」「10・12・25予備」とあるが、誤りである。
予備役編入の経緯
編集枝原が1935年(昭和10年)3月に予備役に編入された経緯については、「堀悌吉#堀の失脚についての渡辺滋の論考」を参照。
初代航空工廠長
編集海軍航空の技術、開発部門は英米などの模倣が主で、自立を迫られていた。海軍航空本部本部長安東昌喬中将、同技術部長山本五十六少将、同総務部長前原謙治少将らは従来から航空技術の自立の必要性を唱えていたが、宮坂助次郎少将が航空技術開発を総合的に指導する機関の必要性を具申して、航空工廠が設置されることとなった。枝原はその設立準備委員長となり、次いで初代の海軍航空工廠(後の海軍技術廠)長に就任した。発足した航空工廠から発せられた七試計画が、後の零式戦闘機につながっていく。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
脚注
編集- ^ 『航空年鑑 昭和16-17年』(大日本飛行協会、1941年)p.515
- ^ 秦 2005, p. 455, 第2部 陸海軍主要職務の歴任者一覧:IV 海軍:4.鎮守府など:B.要港部・警備府: 旅順要港部司令官
- ^ 『官報(昭和9年11月16日号)』大蔵省印刷局、1934年、430頁。
- ^ 『官報(昭和10年3月26日号)』大蔵省印刷局、1935年、779頁。
- ^ 『官報(昭和10年4月1日号)』大蔵省印刷局、1935年、72頁。
- ^ 『官報』第6387号「叙任及辞令」1904年10月12日。
- ^ 『官報』第358号「叙任及辞令」1928年3月10日。
- ^ 『官報』第1189号・付録「叙任及辞令」1916年7月18日。