板倉勝清
板倉 勝清(いたくら かつきよ)は、江戸時代中期の大名・老中。始め15000石。陸奥国泉藩2代藩主、遠江国相良藩主、上野国安中藩主。官位は従四位下・佐渡守、侍従。重形系板倉家3代。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝永3年(1706年) |
死没 | 安永9年5月28日(1780年6月30日) |
官位 | 従四位下・佐渡守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 寺社奉行、若年寄、側用人、老中 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 陸奥泉藩主→遠江相良藩主→上野安中藩主 |
氏族 | 板倉氏 |
父母 | 板倉重同 |
兄弟 |
勝清、建部政民正室、朽木直綱正室、 板倉重丘室 |
妻 | 板倉重冬娘 |
子 |
勝暁、北条氏興、内藤正久、本堂親房、 勝矩、勝意、板倉重治養女、 水野忠見正室ら 養女:土井利厚正室[1] |
略歴
編集板倉重同の長男。
幕府では長年若年寄を勤め、泉から相良、さらに安中とめまぐるしく増転封を繰り返す。延享4年(1747年)には分家の旗本7000石板倉勝該が勝清を殺害しようとして誤って肥後国熊本藩主細川宗孝を殺害するという事件が発生した。本家筋にあたる勝清が素行不良の勝該を廃嫡しようとしたところ逆上しての事件といわれる(本分家の諍いでなく「元々板倉勝該は、細川宗孝が標的だった」とする異説もある[2])。
寺社奉行、若年寄、側用人、西丸老中を経て、明和6年(1769年)には本丸老中に起用される。安永9年(1780年)まで務め、在職のまま没した。跡は長男・勝暁が継いだ。
経歴
編集系譜
編集父母
- 板倉重同(父)
正室
- 板倉重冬の娘
子女
- 板倉勝暁(長男)
- 北条氏興(次男) - 玉縄北条氏に養子入り。
- 内藤正久(三男)
- 本堂親房(四男) - 本堂豊親の養子。
- 板倉勝矩(五男) - 板倉勝行の養子。
- 板倉勝意(六男)
- 太田資俊正室 - 板倉重治の養女
- 水野忠見正室
養女