松永高司

日本の実業家 「全日本女子プロレス」会長 「女子プロレスの父」 (1936-2009)

松永 高司[1][2](まつなが たかし[2]1936年(昭和11年)[3]6月6日[3][2] - 2009年(平成21年)7月11日[2][4][5][6])は、日本の実業家。

松永家の4兄弟で全日本女子プロレスを創業し[5][2]。、社長・会長[5]を務めた[2][7]

女子プロレスの父」「ミスター女子プロレス[8]の異名を持つ。

生涯

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生い立ち

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1936年(昭和11年)[3]6月6日[3]東京都目黒区に生まれる[2]

父親は三重県津市の呉服屋生まれの洋品屋を営む松永松次郎[3]。母親は宮城県仙台市出身で[9]上京して看護婦をしていた松永トヨ[3]

父・松次郎は子どもに厳しく、高司は毎日のように殴られていた[3]。母・トヨは体重が120~130kgもある対格が大きな母親であり、父・松次郎が怒っていた時は子どもたちをかばい[10]、お酒が入っていた時は年中夫婦ゲンカをしていた[3]。強情で頑固な母親だったが、家族みんな母・トヨを慕っていた[10]

母親の出身地である仙台へ疎開した後[9]、終戦後は中目黒にあった学校へ、そして目黒の油面小学校に通い[11]、それから家の近くに出来た目黒区立第四中学校に通った[11]。けれどもただ学校に通っていただけで、勉強はからきし出来なかった[11]。学校では出来の悪い連中を10人くらい集めて子分にして強い奴から守りながら番長格となっていた[11]

格闘技から女子プロレスへ

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家の近くの中目黒区役所のところに柔道の道場があった。小学校4年生の頃から始めた柔道は、存分に暴れられるのが楽しくて兄弟で通っていた[12]。毎月講道館で試合があり兄弟でずっと出ていた。また知らない道場へ行き出稽古もやった[13]

中学卒業後[2]、家業の洋品店を手伝いながら[2]、妹の吉葉礼子[4]が女子プロレスラーとしてデビューしたのを機に[7]、18歳で[7]1954年(昭和29年)から松永家の兄弟4人で女子プロレスの世界に飛び込む。同年発足した「全日本女子プロレス協会」から[7]「道場へ来てくれ」と請われ、女子選手相手にコーチを務めるようになった[14]。後にレフェリーも務めるようになった[2]

またこの頃に兄・健司と共に「見世物」である「柔拳」の試合に出るようになった[15]。しかし柔拳の試合に出てギャラを貰っているのが柔道道場にばれ、兄弟全員が破門されてしまった[16]。柔道が出来なくなった後は、柔拳の試合の糧にするために家の近くにあった「笹崎拳闘俱楽部」に通いボクシングを習った[16]沖縄県へ柔拳の興行へ遠征した時にボクサーとして試合をしたこともあった[16]

戦争が終わってから10年も経っていなかった。皆、食っていくのがやっとの時代だった[14]。それまでに習った柔道や柔拳やボクシングを用いて[17]。「食っていくために」女子プロレスを、女子プロレスラーを育てていくことになる[14][13][注釈 1]

女子プロレス黎明期

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最初期の女子プロレスは「見世物」であり[7]ナイトクラブストリップ劇場が試合会場だった[7]4名の女子プロレスラーと、2名の小人プロレスラーが八畳ほどのマットの上で試合をした[7]。高司はレフェリー兼リングアナウンサーの二足の草鞋を履いて、1ヶ所5日ずつ、それこそ休み無しで全国をドサ回りをした[7]ピンク映画の幕間に試合をしたこともあった[7]

またNWAと提携を結び、ファビュラス・ムーラの来日を実現させた。

「全日本女子プロレス」旗揚げ

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1968年[7](昭和43年)[2]、いくつかあった団体を高司が中心となって万年東一 [19]とともにいくつかあった女子プロレス団体を纏め上げ「全日本女子プロレス興業」を創設[7][2]。社長に就任した[2]。この時、日女のほとんどのレスラーが松永を慕い、旗揚げに参加した。

しかし「ドサ回り時代」のツケは大きく、体育館に興行を申し入れても「劇場ではないから貸せません」と門前払いを食らった[7]。それでも「女子プロレスは歴としたスポーツです」と説得しやっと興行に漕ぎ着け、次の会場確保の説得材料とした[7]

この当時の観客は男性ばかりで、胸や性的な箇所の露出を要求された[7]選手が花道を進むとあちこちから手が伸び、選手が客の下敷きになり体中を触られた[7]。乱闘は選手同士ではなく、選手と客の間で起こるものだった[7]

「女子プロレス」と共に

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万年の辞任後の1987年(昭和62年)から会長を歴任した[2]

「ピストル(男子プロレスでのガチンコ)」「三禁(禁酒・禁煙・禁男)」「25歳定年制」を提唱し、さらにフジテレビでの試合中継も実現させて女子プロブームを興した。

また地方興行や全女事務所の車庫で行われたガレージマッチでは、松永社長が自ら出向いて焼きそばを作ることでも有名だった。

平成になり1990年代に入ると、目の肥えたファンが増えた。男子プロレスと同等に女子プロレスも面白いと認めてくれるようになった。観客か選手を大切に見守ってくれるようになった、と感じるようになった[7]。お客さんが選手を育ててくれる。40年もの間の経験によりこの信念が培われた[7]

2005年(平成17年)[2]4月、資金繰りの悪化と体調不良のため全女会長を勇退し、全女を解散した[2]


晩年

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以降は神田駅近くでおでん屋を営んだ後[20][21]、療養に入る。全女のWWWA世界シングルのベルトは、松永と旧知の仲で色々と若手の世話をした人物におでん屋を譲ってくれた礼として預けており「タダでは何だからと思って」と、20万円から30万円程度の当時欲しかった金を代わりに貰っていた[20]

2009年(平成21年)7月11日[2][4][5] 16時56分、間質性肺炎[2][4][5]のため東京都大田区東邦大学医療センター大森病院で死去[22]。73歳没[2][4][5]。その際に「もう一度横浜アリーナでやりたい」と長与千種に遺言を託した[23]

松永家

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全女は松永家による同族経営であり、高司が中心を担い4兄弟及びその親族が役員に名を連ねていた。特に次男・健司、三男・高司、四男・国松、五男・俊国は[24]松永四兄弟[25]として有名となった[26]。更に配偶者や女性の親族にも元女子プロレスラーが多い。

  • 長男[24][27] - 1932年(昭和7年)生まれ[3]。全女立ち上げの時点で電気関係の会社を経営していたため[27][26][24]全女の経営には関わらなかった[27][26][6]北斗晶などの元全女女子プロレスラーたちからは「よっちゃんパパ」と呼ばれている[6]
    • 長男の妻:奄美百合子 - 元女子プロレスラー。
    • 長男の息子 - 一時期、1980年代の全女看板女子プロレスラーであったミミ萩原と結婚していた。
  • 次男:松永健司[3][4][6][24] - 全女副会長[6]。大人しく温厚な人物で、幼い頃から高司の言いなりであり、1回もケンカをしたことがなかったという[10]。全女立ち上げ時に電気会社の下請けの下請けを辞め、国松や俊国と共に全女経営に参加した[27]。全女では「ミスター郭」のリングネームでレフェリーも務めた[26]。2020年(令和2年)2月6日、肺炎のため死去[28]
    • 長男:ボブ矢沢 - レフェリー。本名は松永太。
    • 妻の姪:京愛子 - 元女子プロレスラー
  • 三男:松永高司[6][24] - 全女会長[6]
    • 高司の妻:遠藤恵子[29][30] - とある柔道道場が持っていた女子プロレス団体の一員だった[30]1956年(昭和31年)に女子プロレスラーとしてデビューした[31][32]。悪役を担当していた[29]。夫・高司とは恋愛結婚であり[30]、女子プロレス稼業に専念していた高司が30歳の時に、高司の目の前に現れたのが恵子だった[30]。全女旗揚げ後は選手の世話や事務作業もこなし夫を支えた[30]。長女を出産する際に妊娠3か月目まで身篭もったまま試合に出場し[30]、長女出産後も時折試合に出ることがあったという[30]
  • 長女:吉葉礼子[4][24] - 元プロ女子レスラー。
  • 次女:山口洋子[4] - 元女子プロレスラー。1989年(平成元年)10月、膀胱癌のため死去[4]。享年50[4]
  • 四男:松永国松[33][34][6][35][24] - 1941年(昭和16年)8月30日東京都目黒区生まれ[35]プロボクサーとして活動後[35]、兄・高司らと共に全女を設立[35][33]。元は全女の巡業時の責任者:ロードマネージャーであり[33][34][35]マッチメイクを担当[34][33][35]。その他、コーチや[34]「ジミー加山」のリングネームでメインレフェリーも務めた[35][33][26][36]。また全女の選手管理部長を務め「国マネージャー」と呼ばれ選手たちから慕われた[33]長与千種の「女子プロレスラーとしての育ての親」であり、長与千種は松永国松の最高傑作と言われている[36]。長く副社長を務めていたが[37]、全女解散時の直前には社長も務めた[6][35]。全女解散から4ヶ月後の2005年(平成17年)8月17日、品川区内のビルから飛び降り自殺を図り死去[33][34][4][36][6][35]。享年63[4][6][35]
    • 妻:赤城マリ子(2代目赤木まり子) - 元女子プロレスラー。国松が自死する数ヶ月前に離婚したと言われている[33]
  • 五男:松永俊国[33][34][4][6][38] - 全女専務[6]。逝去時は社長[38][33]。全女レフリーの中心的人物であり審判部長を務めた[26]2002年(平成14年)9月22日[33][38]、心不全のため死去[33][4][38][24]享年57[33][4][38]
    • 次男:松永正嗣[39] - 取締役・渉外担当
  • 従姉妹:ジャンボ宮本 - 元女子プロレスラー、岡田京子 - 元女子プロレスラー
  • 遠戚:初代赤木まり子 - 元女子プロレスラー

現在は長男を含めた5兄弟が[6]東京都目黒区にある円融寺に眠っている[40]

著書

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  • 松永高司(述)『女子プロレス 終わらない夢 全日本女子プロレス元会長 松永高司』扶桑社、2008年2月20日。ISBN 9784594055806 

登場作品

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:「松永兄弟」は本来なら「4兄弟」であるが[注釈 2]、監督の白石和彌によれば、本当は4人とも描きたかったが、本編の尺の都合により4人を混ぜ合わせて「3兄弟」に分けられ描かれた[42]。そしてドラマ内で全女関係者が全員が悪徳な人物に描くのはやめ、3兄弟は皆、基本的にはプロレスが好きだが、金儲けが絡むと色々とおかしくなっていく。その中でも「足元がぶれない人物」として松永高司は描かれた[43][44]

脚注

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注釈

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  1. ^ ちなみに柔道から破門はされたが、女子プロレスラーを育てるための練習の場所として、道場主から許可を貰い通っていた道場で練習をさせて貰った時期もあったという[18]
  2. ^ 上述の通り、実際には「5兄弟」である。

出典

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  1. ^ 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 現代物故者事典 2009~2011,日外アソシエーツ 2012, p. 571.
  3. ^ a b c d e f g h i j 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 58.
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 全日本女子プロレス創設、松永ファミリー最後の生き残り健司さん死去”. デイリースポーツ online (2020年2月9日). 2024年12月23日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 「朝日新聞」2009年(平成21年)7月13日付 朝刊 17面「松永高司さん死去」:2024年(令和6年)12月18日、宇都宮市立中央図書館にて「朝日新聞クロスサーチ」で閲覧。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 命日”. 北斗晶オフィシャルブログ「そこのけそこのけ鬼嫁が通る」Powered by Ameba (2024年7月11日). 2024年12月23日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 「読売新聞」1995年(平成7年)4月1日付 東京朝刊 28面「なんてったって女子プロレス」(5)「客のまなざし温かく」「40年後市民権」
  8. ^ 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 4.
  9. ^ a b 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 61.
  10. ^ a b c 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 59.
  11. ^ a b c d 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 62.
  12. ^ 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 62-63.
  13. ^ a b 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 63.
  14. ^ a b c 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 17.
  15. ^ 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 17-19.
  16. ^ a b c 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 18.
  17. ^ 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 62-64.
  18. ^ 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 64.
  19. ^ 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 80-83.
  20. ^ a b 週刊プロレス2017年9月13日号pp.70.
  21. ^ 女子プロレスの父 RINGSTARS 2007年6月8日
  22. ^ 宝島社 別冊宝島『プロレス暗夜行路』P75より。
  23. ^ 【長与千種連載最終回】プロレス復帰し「新団体マーベラス」スタート東京スポーツ 2014年12月28日
  24. ^ a b c d e f g h 『社会部記者が見た 芸能界 裏の裏』「女子プロ一家」「真っ赤なバスの渡り鳥」P120 牧太郎 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2025年1月7日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスで閲覧
  25. ^ 『社会部記者が見た 芸能界 裏の裏』「女子プロ一家」P111 - 148 牧太郎 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2025年1月7日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスで閲覧
  26. ^ a b c d e f 1984/12/5 雑誌「プロレスリングFOCUS」 その① 阿部四郎記事”. 時系列でみる! 極悪同盟 ダンプ松本 ファンブログ (2022年11月17日). 2024年12月30日閲覧。
  27. ^ a b c d 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 73.
  28. ^ 全日本女子プロレスを設立した松永ファミリーの松永健司さん肺炎で死去、84歳 - スポーツ報知 2020年2月9日
  29. ^ a b 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 28.
  30. ^ a b c d e f g 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 85-86.
  31. ^ 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 22.
  32. ^ 女子プロレス 終わらない夢,松永高司 2008, p. 23.
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m 松永国松(ジミー加山)飛び降り自殺…なぜ女子プロレスはこうなったのか?”. MMA IRONMAN (2005年8月20日). 2024年12月30日閲覧。
  34. ^ a b c d e f 全女時代お世話になった人たち<その2>松永国松社長”. ロッシー小川ブログ MY FAVORITE LIFE (2018年10月8日). 2024年12月23日閲覧。
  35. ^ a b c d e f g h i j 現代物故者事典 2003~2005,日外アソシエーツ 2006, p. 561.
  36. ^ a b c 「認めたくなかった…」“育ての親”が突然の自死、長与千種(59歳)の初告白…故・松永国松さんに告げられた「おまえのような選手には2度と…」- プロレス”. Number Web - ナンバー (2024年9月22日). 2024年12月23日閲覧。
  37. ^ 「読売新聞」1990年(平成2年)7月2日付 東京朝刊 30面「全日本女子プロレスの副社長が横断中の老人はね、死なす」北海道・知内
  38. ^ a b c d e 現代物故者事典 2000~2002,日外アソシエーツ 2003, p. 570.
  39. ^ T-1グランプリを検証!Vol.4 ターザン山本氏、松永正嗣氏が大絶賛!”. 極上の“T-1二見激情”見参 (2006年7月16日). 2024年12月23日閲覧。
  40. ^ マッハ文朱、ビューティーペア、クラッシュギャルズ 全日本女子プロレスの松永家の菩提寺を訪ねた【山崎照朝コラム】”. 中日スポーツ・東京中日スポーツ (2021年9月24日). 2024年12月25日閲覧。
  41. ^ 『極悪女王』長与千種×白石和彌が語る。試合もプロレス技も演じたキャストたちは「毎日が戦いだった」”. CINRA (2024年9月28日). 2025年1月9日閲覧。
  42. ^ “日本中に憎まれたヒール”ダンプ松本が誕生した理由 白石和彌総監督が見た過酷なショービズの世界|松永3兄弟とダンプ松本らは「トムとジェリー」のような関係”. シネマトゥデイ (2024年9月22日). 2025年1月9日閲覧。
  43. ^ Netflixシリーズ「極悪女王」デジタルパンフレットデータ 利用規約” (2024年9月). 2025年1月9日閲覧。
  44. ^ Netflixシリーズ「極悪女王」デジタルパンフレット|総監督激白!白石和彌インタビュー P13” (2024年9月). 2025年1月9日閲覧。

参考資料

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  • 日外アソシエーツ株式会社 編『現代物故者事典 2009~2011』日外アソシエーツ株式会社、2012年3月26日、571頁。ISBN 9784816923579 
松永家に関する資料
  • 日外アソシエーツ株式会社 編『現代物故者事典 2000~2002』日外アソシエーツ株式会社、2002年3月25日、570頁。ISBN 4816917691 
  • 日外アソシエーツ株式会社 編『現代物故者事典 2003~2005』日外アソシエーツ株式会社、2006年3月27日、561頁。ISBN 4816919694 

外部リンク

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