松本麗華
松本 麗華(まつもと りか、1983年4月 - )は、日本の著述家。元オウム真理教幹部(ただし実権は全く無く、教祖が教団内での家族の地位を上げるために地位を与えたにすぎない[1])。教団内の地位は正大師で、ホーリーネームから「アーチャリー」の呼称でも知られる[2]。オウム真理教の開祖で最高指導者であった麻原彰晃(本名:松本智津夫)元死刑囚の三女。
松本 麗華 | |
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誕生 |
1983年4月(41歳) 千葉県船橋市 |
ホーリーネーム | アジタナーター・ウマー・パールヴァティー・アーチャリー |
ステージ | 正大師 |
教団での役職 | 法皇官房長官 |
現在の活動 | 著述家 |
来歴・人物
編集本節は松本麗華本人による著書、およびブログにおける主張に基づく。
略歴
編集千葉県船橋市に、麻原彰晃(松本智津夫)と知子の三女として生まれる。
家族のもとで暮らしたが、2歳ごろからはオウム真理教の幹部であった石井久子や新実智光、村井秀夫、岐部哲也、山本まゆみなどから世話をされて育つ。3歳からは幼稚園にも通っていたが、5歳の頃、家族とともに静岡県富士宮市のオウム真理教富士山総本部へ移住した[3]。
「幼いころより後継者としての教育と寵愛を受けた」とマスコミに報道されているが、実際には実弟がその教育を受けており、麻原彰晃を開祖とし教祖として指定されたのも実弟であると麗華は主張している[3]。
オウム真理教解体後は、通学拒否や転入反対運動を受けた[2]ことなどから小学校や中学校には通えず、入学には1ヶ月間の観察期間が必要であったため、小学校3年時から通信教育を受けたと麗華は述べている[4]。
日出高等学校の通信制(単位制)を経て、2004年に文教大学に入学を拒否をされたが、裁判の結果、同大学の人間科学部臨床心理学科に入学。大学では心理学を学び、2008年卒業。その後はアルバイトをしながら心理カウンセラーの勉強を続けている。この間、テレホンオペレーターのアルバイトを行っていた際には、社長から「アーチャリー(松本のホーリーネーム)に似ている人がいる」と電話が入り、解雇されたと麗華は語っている[4]。
手記
編集2015年(平成27年)3月20日には、講談社より本名で半生を振り返った手記を公開した。
この中で松本麗華は、松本智津夫死刑囚(当時)を「大好きな父」と表現したことについて、「受け止められない人や多くの批判があることは理解しているが、そうした意見を聞いて、自分自身を作り上げていきたい」と語っている。
本を出版した理由として、「”このままでは父の真相が分からないまま葬られてしまう”との危機感があった」ことと、「自分自身が”自分の人生を生きていない”という甘さがあることを知った」ことなどを述べている。
手記中には、父・松本智津夫を一貫して「麻原彰晃」と記しているが、本人は幼少期から父を「麻原彰晃」として、あるいは「オウム真理教の教祖」として見ていたため、”松本智津夫”と聞くとまるで「どこかの知らないおじさんみたいな感じがする」と述べている[5]。父である松本智津夫に対しては、「今もかけがえのない存在であり、今も温かくて包容力のあるどっしりとした父としてのイメージもある」という[6]。
また、麻原が逮捕される1995年(平成7年)5月16日前日には麻原に呼ばれたものの、眠さのために行かず「お別れ」ができなかったことで罪悪感を持っているという[6]。
自分自身の信仰心については、物心ついた頃から教団があり、そこにいるのが自分にとっては自然なことで「オウムという“街”に住んでいた感覚に近い」と感じており、「入信も出家もしていない」と語っている[6]。
父・麻原彰晃に対する評価
編集松本麗華は実父である麻原彰晃(松本智津夫)について、著書やブログ、また週刊誌の取材などにおいて次のように語っている。
- 世間のイメージと実像とのかい離があまりにも大きかった[4]。
- 「父と会ったら、何を言おう。優しい声で、わたしの名前を呼んでくれるに違いない」と夢想していたが、父は完全な廃人になっており、「父と言葉を交わしたい」という望みは、数十回の接見中、一度も叶えられなかったため、うつ状態になった[3]。
- 裁判時には麻原はすでに精神が崩壊しており、何も語らないままに裁判が進行し死刑が確定したことや、幹部らが父のメッセージを自分に都合のよいように変えたり、アーチャリーの名を無断で使いその後の教団運営がなされた事実から、父の事件への関わり合いについては保留にという立場を保っている[6]。
- 麻原の空中浮揚については、見たことがなくやって見せてほしいといったが「疲れているから」と断られた。ただし、体が勝手に跳びはねる空中浮揚の前段階とされるダルドリー・シッディ現象は何度も目撃している[6]。
- 麻原の精神鑑定書はかなりの部分が嘘にもとづく報告からなっており、例えば鑑定書には食事をこぼさずに食べたとあるが、麻原はもともと目が見えないので食事はこぼすため、胸にバスタオルを巻いて食事していた[4]。
- TwitterなどのSNS上で「松本麗華は麻原彰晃の無実を主張している」と批判する者もいるが、実際には「法に従い裁判を執り行ってほしかった」と主張しているだけで、事実についての判断は留保したままである[7]。
批判
編集- オウムに殺害された坂本堤弁護士の知人であり、自身もオウムに命を狙われた江川紹子、滝本太郎は、大学入学拒否問題の頃は麗華を擁護していたが[8][9]、その後麗華がオウム真理教事件に関して歴史修正主義的な主張をする者たちと交流を持ち同調するようになると、批判に転じた[10][11]。
妹・聡香との対立関係
編集麗華の実妹であり、松本智津夫の四女でもある松本聡香(仮名)は、父の松本智津夫と母の知子によって教団の教義を教え込まれるなどの虐待を受けたとして、両親との関係を解消したいという思いから、両親を相続人から除外するよう訴えを起こした。2017年10月に横浜家庭裁判所が四女の希望を認めた。
聡香は最初で最後の会見として、今もオウムの後継団体に若い信者がいることについて問われると、「教団が言っていることをうのみにせず、自分で考えてほしい」と投げかけた。父親の死刑の是非を問われると「私は死刑執行を望むとは思ってないし、言ったこともありません。父の罪の重さを考えると死刑の執行以外に責任を取る方法はないと思うので、当然だと思いますし、執行されるべきだと思っています。」と述べて、死刑が当然と述べている[16][17]。
聡香の会見を受けて、麗華は聡香の主張を否定、言動を批判して「妹の聡香(仮名) 麻原彰晃の四女の記者会見について思うこと」にて「妹(聡香)は家族の元を離れたあと、父からもらったこの宗教的階位を盾に、教団のトップに立とうとしています。」と主張している[18]。この点につき、村岡達子は、聡香は教団施設で暮らすようになったと言い[15]、元教団幹部は、「教団のほとんどの正悟師が聡香の支持に回り、上祐氏も聡香の取り込みに動いたことがあった」と述べている[15]。
年表
編集- 1983年(昭和58年)- 千葉県にて麻原彰晃と松本知子の三女として生まれる[5]。幼少期からの家庭教師は石川公一だった。11歳にして正大師となり、教団での地位は麻原に次ぐ2位となる。省庁制の際には法皇官房長官を務めた[19][6]。
- 1986年(昭和61年)
- 1月29日 - 初めての海外旅行でインドへ行き2週間滞在。家族と石井久子らが一緒だった。長時間父と一緒にいることや石井らに遊んでもらったことで楽しい記憶となる。その後インドへは10回以上渡航する。このころまでは麻原の弟子と接点はなかったが、このしばらく後、麻原が弟子に車で送迎されるようになり、新実智光ら弟子との接点ができる。
- 4月 - 3歳から千葉県船橋市の菅長学園の幼稚園へ通う。季節を問わず上半身は裸、素足という方針の幼稚園であった。園内の自由時間には絵の教室に行き、クラブ活動ではバレエ教室で踊る。この当時はおとなしい子供であった。姉らが通っていた水泳教室にも通うようになる。
- 4月 - 「オウムの会」が「オウム神仙の会」に改称。
- 12月 - 麻原のヒット作となる『生死を超える』刊行。自身の解脱体験を詳細に綴り話題に[3]。
- 1987年(昭和62年)7月 - 「オウム真理教」に改称。麻原とともにエジプトへ[3]。
- 1988年(昭和63年)
- 2月 - 麻原らとインドへ[3]。
- 3月 - 静岡県富士宮市の富士山総本部道場建設予定地にてイベントが計画され、道場用地にしばしば家族で訪れる。生活用に改造されたバスの中で寝泊まりする。道場建設開始後も同様の生活が続く。ハイビスカスのお茶を好んで飲む[3]。
- 5月 - 再度インドへ。
- 6月 - 麻原がダライ・ラマのイニシエーションを受けるためインドへ。7月には麻原がチベット仏教の高僧カル・リンポチェに会い「ヴァジラヤーナ」他の密教の秘儀を伝授される[3]。
- 8月6日 - 富士山総本部道場の開設記念式典が決行される。式典後は船橋から家族で道場へ引越すが、その後住むことになるサティアンは未完成であったため、道場1階の部屋で生活を始める。幼稚園(菅長学園)と水泳教室は辞め、加藤学園幼稚園へ転園。第1サティアンビルが竣工すると3階に家族の自宅と麻原専用の住宅の2つが造られた。麻原の瞑想室は非常に高い天井になっており、天井にはスポンジ状のものが貼られていた。これは空中浮揚で高く飛びすぎて頭を打った際の対策であると麻原に説明を受ける。また瞑想室内には子供の身長をはるかに超えるような深い浴槽が設置されたが、呼吸も心臓も停止するサマディを水中で証明するために作られたものであった。子供部屋もユニークな造りになっており、リビングに面した壁側にロフトが造られ、そこに子供らの寝床があり、それを取り囲むようにホワイトボードが貼られ、絵が描けるように工夫されていた。また、壁には小窓が設置され開けるとリビングの様子が分かった。ロフトと反対側の壁には3人分の勉強机が並べられていた。石井久子や新実智光、村井秀夫、岐部哲也、山本まゆみらに世話や相手をしてもらい、大きな兄や姉ができたようで楽しい思い出となる。この頃より、麻原を「お父さん」ではなく「尊師」と呼ぶようになる。夜尿症のため、麻原の床で毎日のようにおねしょをするが小言は一切言われなかった。この当時は麻原の視力はわずかに残っていた[3]。
- 9月 - 在家信者死亡事件。
- 12月 - 「大乗のヨーガ」の修業の成就を認定され、アジタナータ・ウマー・パールヴァティー・アーチャリーのホーリーネームを付けられる。当時、麻原がふざけて「遊びの女神はいらっしゃいますか~」と麗華を呼ぶことがあったため、このホーリーネームの意味を「遊びの女神」と長く解していた。ウマーは「光」、パールヴァティーは「山の娘」の意味であることを手記の執筆にあたり調べて初めて知る[3]。
- 1989年(平成元年)
- 1990年(平成2年)2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙で真理党が惨敗。この時麗華が麻原に票のすり替えがあったのではと指摘したところ、麻原も選挙結果は改竄されていると主張するようになる[21]。
- 1994年(平成6年)6月 - 麻原の体調悪化により教団運営ができないのではとの懸念からオウム真理教に省庁制が導入され、11歳にして法皇庁長官に。この頃より麻原は「誰もグルを愛してくれない」、また麗華と2人になると「もう死のうかな」などと頻繁につぶやくようになる[3]。
- 1995年(平成7年)5月16日 - 12歳。父である松本智津夫逮捕。午前10時ころ、警察官らが家族の閉じ込められた部屋へ進入、「麻原を見つけたから靴を出せ」と怒鳴った。警察の誘導だと感じた麗華が「靴なんてないよ。お父さんいないから」と返答すると、警察官は「じゃあ、裸足のまま連れて行く」と言った。嘘ではないと察した母・松本知子がサンダルを用意し渡した。警察官3人に令状なしに泣き顔を撮られる。その後、寝るたびに記憶が消えていく現象を経験する。強制捜査前1,400人いた出家信者が事件後、500人まで減少する[3]。
- 1996年(平成8年)8月24日-10月下旬 - 教団引き締めのための観念崩壊セミナーを唯一の正大師として主催し、セミナー内容の監修・指示をした[22][23]。多くの怪我人・心身障害者を出した[22][23]が、自身も大きな精神的ショックを受け家出、リストカットを繰り返すようになる[3]。
- 2000年(平成12年)2月19日 - 同年1月に茨城県旭村(当時。現・鉾田市)にあった自宅に侵入したとして逮捕される(旭村事件)。当時、アレフに対して観察処分の適用が議論されている中で政治利用され、麻原の長男を連れ去ろうとしたとして報道されるが、実際は住居侵入罪での家裁送致だった。家裁での審判の結果、保護観察処分となる。
- 2004年(平成16年)- 3月に合格した和光大学を入学拒否したとして提訴。東京地裁は「入学拒否は違法」と認定、和光大学に30万円の慰謝料支払を命じる。
- 2013年(平成25年)7月 - ブログを開始、麻原につき多くを綴る[4]。一時期は3時間に一度は罵倒が書き込まれる状況だった[6]。
- 2014年(平成26年)1月28日 - オウム真理教元教団幹部の死刑囚4人の間の書籍の受け渡しを仲介していたとして東京拘置所から4人との面会を禁じられていたことが明らかになった[24][25]。
- 2014年1月中旬及び2月中旬 - 麻原の二男のアレフ復帰の計画に関して、観察処分下の教団運営に二男が参加することを反対するむねを特定のアレフ幹部信徒を通じて一部の幹部信徒に伝え、さらに計画を推進している幹部信徒を批判する文書を全国の幹部信徒に送付した。これに対する賛否をめぐって三女に同調する幹部信徒が除名処分となり、さらにその対応で教団内部の対立が顕在化するなど、彼女の教団運営への関与が教団に混乱をもたらしたとされる[26]。
- 2015年(平成27年)
- 2017年(平成29年)9月29日 - 読売新聞に対して行った1000万円の賠償請求の敗訴確定[30]。
- 2018年(平成30年)
関連人物
編集関連項目
編集脚注
編集- ^ 松本麗華 2015, pp. 254–256.
- ^ a b “アーチャリーと呼ばれた麻原彰晃死刑囚の三女、Twitterアカウントに誹謗中傷が相次ぐ”. ハフポスト (2018年7月6日). 2021年6月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 松本麗華『止まった時計』三女・アーチャリーの手記(講談社)
- ^ a b c d e f お父さん分かりますか?麻原彰晃の三女 アーチャリーのブログ
- ^ a b “【BOOKセレクト】松本麗華著・「止まった時計 麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記」”. スポーツ報知. (2015年4月17日). オリジナルの2015年4月20日時点におけるアーカイブ。
- ^ a b c d e f g h “麻原彰晃の三女が明かす半生と父への思い「矛盾の中で生きてきました」”. 週プレNEWS. (2015年4月7日)
- ^ 松本麗華 2015, p. 266.
- ^ “扉を開けて~松本智津夫三女の入学拒否問題を巡って”. Egawa Shoko Journal. 2018年6月27日閲覧。
- ^ 滝本太郎ウェブ日記 さるさる日記 - 『日常生活を愛する人は?』-某弁護士日記 - ウェイバックマシン(2006年8月23日アーカイブ分) 2018/6/27閲覧
- ^ 江川紹子. “「真相究明」「再発防止」を掲げる「オウム事件真相究明の会」への大いなる違和感”. ビジネスジャーナル. 2018年6月27日閲覧。
- ^ a b 滝本太郎ブログ. “メディアと三女”. 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記. 2018年6月27日閲覧。
- ^ “アレフ問題の告発と対策 麻原三女『止まった時計』”. ひかりの輪. 2018年4月15日閲覧。
- ^ 松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』、49頁。
- ^ 野田成人『革命か戦争か』、84頁。
- ^ a b c 『週刊新潮』2011年8月11・18日号
- ^ [1]
- ^ [2]
- ^ [3]
- ^ オウム真理教 こちら広報部
- ^ 元信者たちの手記 カナリヤの会
- ^ 平成7年刑(わ)894号 平成14年7月29日 東京地方裁判所
- ^ a b 妹と元側近から「あの手記はデタラメ」と非難される麻原彰晃「三女」
- ^ a b 元P師『幻想の崩壊』オウムとはなんだったのか?
- ^ 『オウム4死刑囚が本回し読み、教祖三女が仲介か』2014年1月28日 読売新聞
- ^ “法務大臣閣議後記者会見の概要”. 法務省 (2014年1月28日). 2015年5月25日閲覧。
- ^ “コラム 麻原ファミリーをめぐる教団運営の混乱” (PDF). 内外情勢の回顧と展望. 公安調査庁. p. 56 (2015年1月). 2015年5月25日閲覧。
- ^ 地下鉄サリン事件20年、松本死刑囚の三女「アーチャリー」語る ウォールストリートジャーナル日本版
- ^ “田原総一朗:「空気」によって突き動かされる怖さ――麻原彰晃・三女に聞く”. BizCOLLEGE (日経BP). (2015年3月24日) 2015年8月30日閲覧。
- ^ 『松本死刑囚三女、元幹部らとの面会訴え取り下げ』 2015年6月21日 読売新聞
- ^ 「松本死刑囚3女の敗訴確定」 読売新聞 2017年9月29日
- ^ a b 滝本太郎ブログ「三女と西田先生 | 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記」
- ^ 滝本太郎ブログ「訴状到着 原告三女、被告私 | 『生きている不思議 死んでいく不思議』-某弁護士日記」、上祐史浩ツイート
- ^ 青沼陽一郎ブログ「麻原彰晃の三女アーチャリーが嬉々として早稲田大学講演会を喧伝するのは、主催サークルOB名簿にぼくの名前があることを知ってのことなのか!? 」
参考サイト
編集外部リンク
編集- お父さん分かりますか?麻原彰晃の三女 アーチャリーのブログ(旧ブログ)
- 自由をもとめて 松本麗華(新ブログ)
- 松本麗華 (@RikaMatsumoto7) - X(旧Twitter)
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