松本 秀治(まつもと ひではる、1894年3月17日 - 1983年5月1日)は、大日本帝国陸軍軍人軍医。最終階級は陸軍軍醫少将

松本 秀治
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 - 1945
最終階級 陸軍軍醫少将
テンプレートを表示

東京帝国大学医学部(のちの東京大学医学部)卒業。陸軍士官学校陸軍軍医学校教官などを経て、第23軍軍医部長となる。形成外科医の他、疫病の研究や口腔外科医として戦地にて活躍した。

父は長州藩の武士・医者・官軍である松本 三省(まつもと さんせい)(別名、 道秀)。親戚に日本画家松林桂月がいる。

軍医としての松本秀治(中央)
戦後、松本医院にて

経歴

編集

明治27年(1894年)3月17日、山口県に生まれる。東京帝国大学医学部卒業後、陸軍軍医学校に入校。軍医として文部省歯科病院で修業し、三内多喜治主幹のもと陸軍軍医学校教官となる。その後、満洲に赴任。当時は、中国大陸において既に昭和12年7月7日に日支事変が勃発し、戦局は拡大の一途をたどり、大東亜戦争太平洋戦争)へと突入していこうとした時代であり、戦地より護送される顎・顔面損傷患者が大幅に増加していた。中国全土に広がる激戦で、患者が多数に生じ、現地での治療が困難な状態となり、陸軍軍医学校の診療機関を利用して、顎・顔面戦傷患者治療に当たることとなった。軍医の補習教育機関であった陸軍軍医学校に口腔外科が置かれ、松本は三内多喜治の後に主幹となった。陸軍軍医学校でこれら顎・顔面戦傷患者の治療に当たった関係者が、その経験を基礎として戦後の口腔形成手術の発展を担う中、松本はその中心人物となった。戦地での治療と研究を記した著書は、今日の急患の処置に十分間に合うような内容で、口腔外科の発展に大きな影響を与えた。香港駐在中には、胡文虎邸に招かれるなど、士官として現地の政治家や実業家とも幅広く交流を深めた。東條英機陸軍大将の手術を執刀したこともあり、その際には壺を授与された。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]

戦後は福島県いわき市にて松本医院を開業。

脚注

編集
  1. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」84頁。

参考文献

編集
  • 松本秀治著「日支事変に於ける顎戦傷治療の現況」、昭和14年。
  • 松本秀治著「出動地に於ける歯科診療」、昭和15年。
  • 松本秀治「顎および口腔戦傷特種治療について」軍医団雑誌、昭和16年。
  • 松本秀治「下顎骨骨移植の臨床的ならびに実験的研究」軍医団雑誌、昭和17年。
  • 「顎顔面損傷の外科」、昭和32年。
  • 山中宇八郎「手術的小骨腔修復に関する研究」東京女子医科大学雑誌、昭和35年。
  • 中村平蔵「日本の口腔外科史」、昭和43年。
  • 上野正「松本秀治先生と陸軍軍医学校」続々 いわでもがな-老いの語り、昭和63年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、平成13年。
  • 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 昭和7年9月1日調698ページに記載あり。
  • 陸軍現役将校同相当官実役停年名簿. 昭和10年9月1日調697ページに記載あり。