松平 義真(まつだいら よしざね)は、江戸時代中期の大名陸奥国梁川藩の第3代藩主官位従四位下式部大輔侍従

 
松平 義真
時代 江戸時代中期
生誕 享保3年6月1日1718年6月28日
死没 享保14年5月5日1729年6月1日[1]
改名 求馬(幼名)、義真
戒名 善暁院殿本誉速證源然大居士
墓所 東京都文京区小石川伝通院
官位 従五位下従四位下式部大輔侍従
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
陸奥梁川藩
氏族 大窪松平家
父母 松平義方浅野綱長の娘・於三
兄弟 義真、近姫
正室:なし
なし
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略歴

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第2代主・松平義方の長男として誕生。母は浅野綱長の娘・於三(現成院)。幼名は求馬。

享保5年(1720年)11月25日、髪置。享保6年(1721年)5月2日、義方の死去により跡を継ぐ。享保8年(1723年)1月4日、尾張藩主・徳川継友に初対顔する。しかし幼少のため、藩政は家老によって執り行なわれた。享保11年(1726年)5月8日、8代将軍・徳川吉宗に初御目見する。享保13年(1728年)12月に叙任するが、翌年5月5日にもともと病弱だったことから12歳で早世する。

戒名は善暁院殿本誉速證源然大居士。正室はなく嗣子もおらず、梁川藩は改易となる。同年8月11日に本家の尾張藩から松平通春(後の徳川宗春)が再興することとなる。墓所は東京都文京区小石川伝通院

脚注

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  1. ^ 名古屋市蓬左文庫『名古屋叢書三編 第一巻 尾張徳川家系譜』』名古屋市教育委員会、1988年、299頁。 生没年を正徳4年(1714年)5月29日-享保14年(1729年)5月10日とするものもあり、前掲書213頁参照。ただし実母現成院の項には生年を享保3年(1718年)とする。前掲書294頁参照。